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2007年8月

2007年8月29日 (水)

我流写真術

写真のことは、正直素人です。しかもど素人。
でも、画像工学のことは詳しい部類ですが、でも、それって、写真で見る人を感心させられる、とか、もっと欲張って感動されられるようなものではありません。要するに役に立たない知識しかない。トリビアみたいなもんですね^^;

カメラは、
Nikon FE(何年前のカメラだ?)
Contax TVS
MINOLTA DiMAGE X
を持っていますが持ち歩きません。北海道に9日間も一人旅をするのにカメラを持っていかないような奴です。だから、こんな記事を書いていいのか?とも思います。

高校生の時、美術部にいて東京芸大に行った先輩から、
”構図を考える時は、見る人の目線を自分の狙ったように動かさせなさい。”
と教わりました。つまり切り取った画面の中にあるモチーフをどんな順番でどのように見せたいのかを想像しながら、構図を考えろ、と言うことです。
簡単に言うと、一番見せたいものを目立つようにすることです。そして二番目、三番目と目立つ度合いを変えて行きます。当然見えている色とは、違った色合いを選択することも有ります。当然、画面全体の色使いも変えてしまいます。見せたいものが一つであれば、コントラストが強烈な色合いにもってゆきますし、沢山あるなら全体的にコントラストの緩い柔らかな色合いを選ぶことが多いです。また、細かく描く、描かないでも見せたいものとそうでないものとを区別します。

コントラストの強烈なモチーフを全体にばら撒いてしまうと、何を見せたいのか解らなくなりますし、見ていると頭が痛くなります。

写真で言うなら、一つの物を見せたい時には絞り込んでコントラストを付け、見せたいものにだけ露出を合わせます。逆に幾つか見せたいものがある時には、絞りを開け気味にして全体のコントラストを下げ、みんなに色合いが合うようにします。

もう一つ、ピントと絞り=被写界深度の関係も構図上重要です。
絞りを開けると被写界深度が浅い=ピントの合う奥行きが浅くなりますので、見せたいものだけにピントを合わせれば、周りは適当にボケて見せたいものだけが浮き立ちます。
逆に絞りを絞ると被写界深度が深い=ピントの合う奥行きが深くなりますので、全体的にピントが合って、狙っている幾つかのモチーフを映し出すことが出来ます。

絞りに対するコントラストとピントの関係が逆になるところが、写真の面白いところなんだろうな?と思います。

でも、最近みんなデジカメですよね。ダブルγ(色合いの合うレンジを二つ持ってる)やダイナミックレンジ圧縮(写真的に要らないレンジを圧縮してしまう)なんて機能を持ってたりするので、シーンセレクトなんかできちっと選んでやると、信じられないような美しい写真が撮れたりします。青空なんかもアナログの時は偏光フィルターを用いて紫外線除去をしたものですが、勝手に青を強調してくれたりもします。
見せたいものを中心にして半押しにして、そのままずらしてシャッターを押せば、ピントも色も合ってしまいますし、最新のは画面の中で勝手に顔を認識したりもします。
だから、腕の見せ所はトリミングだけ。どう画面に切り取るかだけです。

詰まらなくなった、とも言えますが、思い出が無残に散ってしまったりはしません。

僕が一人旅の時カメラを持ち歩かない一番の理由は、脳裏に浮かぶ景色と写真の差異が嫌だから、だったりします。

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2007年8月26日 (日)

分裂膝蓋骨のその後

有痛性分裂膝蓋骨に痛みが出てかれこれ10週間、何となく治ってしまったようである。
膝は極力曲げない、膝蓋骨に荷重は掛けない、消炎鎮痛剤Hypen400mg/day、湿布モーラステープ(これは殆ど気休めの世界、でも張った後は気持ちがいい)が主な治療。対症療法みたいなものかな?
4週間前に奥多摩に走りに行った後は、次の日ちょっと痛くなって、
”しまった!”
と思ったが、昨日峠道ばかり230km走って来たが出たのは太ももの筋肉痛だけ、膝は痛くない。(次の日にちゃんと筋肉痛が出る辺り、まだ筋肉だけは若いのね?)
”もしかして治ったか?”
主治医の先生からは、
”これで痛みが取れるようなら普通手術はしないよね。もし、また痛くなるようだったら相談してください。”
と言われているので勝手に治療を終了しても良いかな?今度、会いに行った時に報告して「経過観察」にしてもらって一先ず治療終了。
膝も痛くないし、朝晩急に涼しくなって、今年二度目のバイクシーズン到来と言った感じ。
3月末から梅雨までの3ヶ月間、9月半ばで涼しくなり始めてから11月半ばで寒くて乗れなくなるまでの3ヶ月間しかバイクに乗らないここ数年。
”本当にバイク好きか?”
と突っ込まれそうな軟弱振りには、自らも呆れる。でも
”楽しく乗れないなら、乗りたくない”
のが正直なところ。
”それって、年寄りの我儘?”
って言われそうだけれども、
”誰彼構わず我儘言うほど年じゃないやい!”
かれこれ20年以上もバイクに乗っていると、何時でも何処でもどんな時にもバイクでと言うことは無くて、スポーツや趣味の如く、人生の楽しみの一つになっている。

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2007年8月22日 (水)

技術の左手

クラッシックギターの世界では、技術の左手、芸術の右手と言います。他の分野でも言うのかも知れないけれども...
その肝心の左手の小指のDIP関節、中節骨と末節骨の間、何てことは無い一番指先の関節が痛くてギターが弾けなくなってしまいました。

ううっ!

タレルガの曲は、小指でのグリッサンドやポルタメントを多用します。(一つの弦の上を押さえたまま滑らせるテクニック、で説明としては合っていると思います。)長くタレルガの曲ばかり弾いていたせいか、一番力が掛かるDIP関節の靭帯が緩んできていたのですが、とうとう痛みが出てきてしまった。
X線写真を撮ってみたら、関節軟骨が消失して、骨の硬化像まで見える。

”これって、変形性関節症か?”

慌てて全部の指を撮って貰ったが、今のところ左手の小指だけ、よく見ると指も僅かに変形している。

”何てこったいっ!”

住んでいるところの近くの病院に、”音楽家の指”と言う本を書いている指で有名な整形外科の先生が居ると聞いたので早速行って見た。

”もう変形は治らないよ。”
”痛みが出ないように固定するしかないね。”
”.....”(絶句)

固定したら、弾けないじゃないか?
でも、痛みが退くならと半年テーピングで固定してみた。
しかし、全然痛みが退く気配なし。どうすりゃいいんだ?
小学5年生の時から始めて、ギターとは一生付き合っていくものと思っていたのだが、思わぬところで挫折が待っていた。

いや、こんなことで諦めちゃいけない。

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2007年8月19日 (日)

夕闇の少女

それは冬の終わり、新しく住むアパートを探しに東京に来た時だった。まだ東京に不案内だった僕は夕闇の中電話で予約した宿が見つからず、ウロウロしていた。
建物の隙間の路地に今時じゃありえないような服装の女の子が落ち着かない様子で立っていた。白いブラウスに厚手のカーディガン、黒っぽいズボンに木のサンダル。ありえないだろ?
中学生位だろうか?止めておこうかとも思ったけど、あんまり人通りも無い所でちょっと困っていたので、思い切って聞いてみた。
”ちょっと道を聴いてもいい?”
苛々してるように見える彼女は、相手にしてくれず路地の奥の方を見ている。誰かを待っているんだろうか?
”ゴメン、このあたりに...と言う旅館知らない?”
彼女はちょっと面倒そうに、
”この辺に旅館なんか無いよ”
と言う。
”ああ、そうなんだ?ありがとう。”
と言って、路地から表通りに出て辺りを見回した。しょうがない、駅前に戻って交番で聞こうと思いながら振り返って先ほどの路地の方を見た。
少女がいない!
奥の方を目を凝らしてみてみたがいない。隠れたか?でもそんなに隠れるような場所も無いようす。ちょっとした暗がりではっきり見えないが、建物の影の中は違う世界のような感じがした。
”さっき、影から出たから見えなくなったんだろうか?”
怖いことには慣れっこになっていた僕には、ちょっと探究心が湧いてきた。それでも恐る恐る影の中に足を踏み入れてみた。でも、何も変わらなかったし、彼女が再び姿を見せることも無かった。

”う~ん、またかなあ?”
”でも、受け答えまでしてくれたからなあ?”
”今まで受け答えをしてくれた人は居なかったよなあ?”
それとも変な人に声を掛けられて怖くて逃げただけか?それにしては、一歩通り側に踏み出して駅の方を見ただけだから、3秒も経っていない。3秒で路地の向こう側にまで抜けられるか?

後で知った事だが、その日は3月9日、翌10日未明は東京大空襲だった。ここは空襲の酷い被災地、まあ東京などは何処に行っても同じような事が言えるだろうが、毎年終戦記念日になると不思議とその娘のことを思い出す。でも、出来れば僕の見間違いであればいいと思う。

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2007年8月16日 (木)

日本人の物理感

一般的に日本人は物理分野でノーベル賞的な論文を出しづらいとされている。まあ言っているのは主に欧米の学者ではあるが、割と言い当てているのではないかと思う。
日本人の宗教観は、宮崎駿が言うように”八百万の神々”の如く多神教と言われるようなもので、人すらも神になれる。一方、西欧人の宗教観は、主にキリスト教、ユダヤ教を含めて一神教である。中近東もイスラム教を初めとして一神教が多数を占める。(まあ、例としてあげた3つの宗教は、最初は同じものであると言われもするが、ここでは触れない。本題は一神教か多神教かなのだから。)
一神教を信じる人たちの際立った特長として、”唯一絶対的なもの”を信じていることであろう。他方、多神教では”唯一”と言った概念は自ずと存在しないことになる。(少なくても僕には無い。)

物理(もしくは数学でも良いが)の分野は、極端な言い方をすれば一つの絶対的な法則を見つけることである。それには出来るだけ美しく簡潔であることが望まれる。理由は、”神が複雑で美しくない法則を作り出すはずが無い”と言うところから来ていることを挙げる科学者が多い。”唯一”と言った概念を持たない民族には、一つの絶対的な法則に向かうこと自体が心理的な矛盾を生むのではないかとも考えられる。

さて、かの日本人であるが日本人全てが多神教であるとは言わないが、仏教であれ神教であれ、仏壇に手を合わせ、神社にお参りし、神木を拝み、石にも飾りを巻く。信じた仏、神以外の神を無視しろとは言わない。そう言った強制は普通無い。
ともすれば、神秘的=良く解らない事は全て神々しいとして敬ってしまう。解明する方向に気持ちが向いていないとも言える。

一方、日本人の”物事を極める”活力には驚くべきものがある。”物が無い国故に一つ一つのものを極める”と言う人もあるが、物への絶え間ない改良、精神的な鍛錬、探求への執着、(トヨタ流に言うと”改善”に当たるが)等は、日本人の得意分野にも思える。
長い江戸時代の間に”奇抜なアイデア”は”ご法度”と言う名の元に封印され気味であったことが、許されるものの中での探求心へと向けられていた、とも考えられるが、江戸時代に”極められた文化”は、ことさらここで挙げなくても枚挙に暇が無い。また、この時代の文化の特徴とし、”遊び”に対する文化の成熟度が高いと思われる。特に庶民文化では”楽しむ”事への拘り、探究心が演劇や絵画は言うに及ばず”粋”を代表とする生活スタイルまで及んでいる。
ある意味、封建制度を根底から覆すような物理的な発見が、日の目を見、発展させられるようなことはありえない時代が長く続いていたとも考えられるため、触れてはいけないもの以外への探究心であったとも言えるだろう。

さらに、日本人の好奇心は、世界有数と言われる。”日本人のPureさ?”と言う記事でも書いたが、他の国の文化を取り入れることが上手いと言う事は、その文化に興味を持つと言う事、それは取りも直さず他国の文化に対する好奇心が高いとも取れる。遣隋使の時代からは中国を代表とする東洋文化、明治以降の西洋文化は、日本人の好奇心を大いに満足させて来た。しかし、近年、それらは輝きを失いつつあり、逆に鎖国時代に花開いた庶民文化の継承とも思える文化が海外に向けて輝きを持ちつつある。また、敗戦により文化的に自由になった日本では急激に多様化しつつある。多様性こそが、次の進化への原動力であるとも言える。

多神教、制度的な抑制が無い、好奇心旺盛、急激に多様化する日本文化が、この先どんな物理的な発見を生むのかは非常に興味深い。
日露戦争の勝利でいい気になった日本が辿った結末は近代史が教えてくれるところではあるが、輸入に偏っていた文化を輸出に転じて東洋物理(こんな言葉はありませんし、僕は国粋主義でもありません)的な発想を物理の世界に持ち込んでみては如何だろうか?
所謂”日本人的な物理感を持って”。

主に朝日新聞と日経新聞の記事をもとに推論しました。ですから参考文献は、強いて言えば新聞となるでしょうか?

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2007年8月 4日 (土)

カント認識論

と言う題を付けない方が良いかも知れません、カントに怒られそうなので...。

外界(自分の脳以外の物、表現が正しいか自信が無いですが)の認識は、個人の脳の中で個人の5感(正確には脳神経は12ですから、12感とでも言うのだろうか?でも視・聴・嗅・味・触覚としては5感か)が取り入れた情報を基に組み立てられると考えられます。経験がないと認識できないのですが、これは大人になって初めて視力を得た人の観察記録からも明らかであるように、取り入れた情報が無ければそれが何であるか認識できないのです。ですから個人の認識の違いで外界は違うものになります。ただ、脳神経系の構造は固体に拠って大きく変わるわけではありませんので(当然個人差はあります。)大体認識は共有されることが多いのですが、それは育った環境に左右されます。国、地域、文化の影響を受ける、とでも言えば良いでしょうか?
いちばん簡単なのは、犬の鳴き声でしょうか?日本では”ワンワン”、アメリカでは”バウバウ”と言った具合で文化圏で継承される泣き声があります。(発声音域の違いから、聞こえる音域の差で違った声に聞こえるとの説もあります。)
厳密には、見え方と同様に聞こえ方も個人により異なると考えられます。

何故こんな話になったかと言うと、如何に自分の頭の中にあるイメージを人に言葉で伝えるのかが難しいかを思い知ったから、とでも言いましょうか?
情報が氾濫しているためかどうかは解りませんが、”共通認識”と言う言葉が死語になりつつあると感じたためです。
同時に感じることとして、インターネットの普及により世界が狭くなり、国や文化圏を越えて文化のアイソレーション化が起こっている。
二つは、相反することですが同時進行に思えます。
世代間で、もしくはある集合体間で、認識のずれが横行し、国や文化圏を飛び越えて共通認識が出来上がる。

不思議な時代になったものだな?と思います。

The visual image in mind and brain; SEMIR ZEKI; Scientific American September 1992

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