« そっくり館 キサラ | トップページ | よく続いたものだな »

2008年12月28日 (日)

日々殺人のニュースが流れる世相に思う

長らく社会生活を基盤としてきた人には孤立に対して強固な耐性を持ちあわせては居ないようだ。
近年増加している怨恨や利害と言ったこれまでの常識が通用しない殺人者に「誰でも良かった」と言わしめるような犯罪は、彼らの孤立に対する追い詰められた感情の行き着く先なのかも知れない。

世の中には人殺しの道具が溢れている。もともとそれらは人々の暮らしを豊にするものであっても、使い方を間違えれば凶器になりうる。我々はもともと危うい環境の中に生きているのだ。安全に関する基盤は、礼儀正しく非攻撃的な日本人社会にはあえてお金をかけなくても十分であったと思える。それは社会基盤が孤立した人間を作りづらい構造だったからと考えることも出来るだろうか。
高度経済成長が齎した核家族と呼ばれる社会構造は、多くの家等の基盤構築を促し経済成長を足元から支えていた訳だが、その結果として孤立した人を大量に作り出してしまった。

性善説を信じる人が居るだろうか?でも、箍の外れた人間は何をしでかすか解らない。無政府状態の紛争国で人々が行う非人道的な行動は、十分性悪説を裏付けるようなものに思える。彼らは箍が外れてしまっているのだ。それまでの隣人に対して銃口を向け平然と引き金を引く様は、「誰でも良かった」無差別殺人者と対して変わらないものを感じる。
核家族化による社会的孤立であれ、経済不況に拠る社会不安であれ、もっと違うものであれ、孤立させ箍を外してしまっては、殺人者になる者もその被害者になる者も双方にとって不幸である。
この状況を作り出した背景が、もし解っているなら修正するしかない。

多くを求めるものにとっては、同じ状況も違って感じることだろう?「安月給でもそれ程暮らし振りが悪い訳でもない」、「幸い家族に恵まれている」と感じる僕の置かれた環境も、人に拠っては生活に不満を持ち、十分孤立を感じさせるものかも知れない。
過剰な自我を構築しなければ、人とて唯の生物であり置かれた立場で素直に生きていけば特に問題は発生しない。人こそが持ちうる過剰な自我が、報われない想いに攻撃的な防衛策を要求する。
将来に希望が見出せず孤立した人にとって、社会は敵であり、そこを行き交う他人は敵意をぶつける相手になっても不思議ではないのかも知れない。将来の希望がない状態は、箍が外れた状態に他ならないのだから。

日本は、富の分配が世界一上手く行っている国と言われてきた。ある意味理想的な社会主義国家と言えなくもない状況だったのだが、それらは経済に対する国家による縛りが上手く機能していたからだろう?
平成の時代の経済の自由化は、バブルを産み、バブルで挫けた日本企業に体力を与えたかも知れない。でもその恩恵に預かっているのは国民全体ではない。
だからと言って、世界的な自由経済の中、保護主義を復活出来る筈もない。
テレビで垣間見るような一部の人たちの優雅な生活を国民全部が出来るほど、世界経済は裕福ではない。ましてG7最下位で一人当りのGDPが19位の日本は、大量の富裕層を賄い、貧困層を出さないほど裕福ではない。

孤立した人間を作らず、貧困層を出さない施策がその解決の糸口となろうか?
例えば、ドイツに見られるようなワークシェアなどや、地元の人間を優先雇用する雇用法や、農村の復興を促し家族が離れて暮らさなくても生活が成り立つような施策が必要なのかも知れない。特に農村復興は、食糧問題とも関連して重要な課題であると思われる。

「殺人と言う経験をしてみたかった」と言ったエリート高校生の殺人は、この理屈とは無縁かも知れない。彼は、エリートであるならば、そうでない人々に対して思いやる必要はないと誰かに教わったのだろう?直接的ではなくとも、結果としてしてそう言う理屈に辿り着くような思想を植えつづけた連中が居るのだ。それは親かも知れないし、競争に勝ち残らせ自らの成績を上げたい進学塾の講師かも知れない。または、ニュースが流す世相そのものかも知れない。それとももっと潜在的な何かかも知れない。個人を攻める積りはないが、何れにせよ、表面に出て来た人間の数十倍は潜在するものだ。

まあ、年末の押し迫った今頃、こんな思考を廻らせている自分も如何なものかな?とは思うのだが・・・

|

« そっくり館 キサラ | トップページ | よく続いたものだな »

独り言」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日々殺人のニュースが流れる世相に思う:

« そっくり館 キサラ | トップページ | よく続いたものだな »