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2009年5月

2009年5月31日 (日)

人の死とは?

先日、介護タクシーなるものを初めて利用しました。寝たきり、もしくは寝ていた方が楽な状態や車椅子での移動に利用されると言います。装備も見てくれも殆ど救急車の乗りなのですが、それ程重症な患者を搬送することがあるのか聞いてみたところ、臓器移植のために空港へ向かうなどの利用で結構羽田や成田まで行く場合があり、そう言うときには救急車並みの装備が必要になるそうです。

5月30日の読売新聞の「臓器移植 描けぬ未来」と言う解説記事で、臓器移植に関する議論を、「誤解、長期脳死、小児の意思」と言う三つの視点から解説していましたが、それぞれに私的な意見や考えらる問題点や危惧を重ねてみようかと思います。

「誤解」これは、主に医療の高度な専門性と医療への不信が齎すものでしょうか?
解らないことへの言い様のない不安は、知れば信用に値するものでも、医療の高度な専門性が知ることへの壁になります。医療だけではありませんが、テクノロジーの高度化は、それに携わらない者の理解を拒絶するほど高度化し過ぎています。医療には、”知らなくても便利に使えれば良い”と言う理屈は通用しない場合が多い。しかし、医療に携わらない者への高度な理解を得るのは、医療を一から教育するようなものです。現実的にそれは不可能ですので、構造的な問題として医療不信はなくなりません。

延命治療の中止
記事の中では、現在改正案の中で幾つかの案が提示されていますが、僅かだが可能性のある意識回復を延命治療の安易な中止でゼロにしてしまうのではないか?、と言ったことが危惧されています。
脳死判定は大変デリケートな問題ですが、現在の判定方法もその道具も不信を払拭するほど高度でもなければ、理解を得られるほど簡単な理屈で動作するようなものでもないと思われます。そもそも脳死判定自体がまだまだ簡単ではないのです。
また、脳死判定をした医師を民事訴訟から守る法律すらありません。
JR福知山線の事故で災害医療にあたった医師たちは、災害医療の基本である「防ぎえる死」を避けるために怪我に応じたタグをつけなければなりませんでした。現場で助かる見込みが無い被災者には、助かる見込みがある被災者を救うためにブラックタグを付けることが義務付けられます。しかし、彼らはブラックタグを付けられた遺族に民事訴訟で訴えられています。これでは、誰もブラックタグを付けられず、災害医療では「防ぎえる死」の山になります。
一度は脳死判定に同意した家族も「十分な説明を受けなかった」と言えば、簡単に民事訴訟が可能です。医療民事訴訟の多くが、医師の説明責任を問うものです。ですから、そう言った危惧があれば、医師たちは誰も脳死判定などしなくなります。
どちらかと言うと延命治療の中止の危惧も当然ですが、誰も脳死判定をしないほうを心配した方が良いのではないか?と思われます。

医療費の自己負担
厚生労働省は包括化の拡大を図っていますが、延命治療は包括化を科せられた医療施設にとっては重荷です。自己負担は健康保険法が盾になってくれるかも知れませんが、転院を強制したり、脳死判定を急ぐことになりはしないでしょうか?医療施設は、感情論を捨てなければ生きていけないほど逼迫しつつあります。

提供の強制
国を挙げての臓器移植推進は、臓器提供の強制と言った家族への新たな社会的イジメを誘発するのではないでしょうか?臓器移植は、個人や家族の意思で行うものですが、社会は往々にして少数意見に対して攻撃的です。社会には、自分がされたら嫌な事を人には平気でする人が大勢居るようです。

「長期脳死」
小児特有の長期脳死
小児の脱髄疾患は所見の割に症状が軽い傾向があるように思われますが、脳死状態にあっても長期に心臓が動きつづける症例が存在するようです。子供に対する親の感情に理屈は通用しません。心臓が動きつづける限り、奇跡を信じる親にどうやって脳死を認めさせるのか?こればかりは不可能に思えます。

植物状態と脳死の判定
脳のダメージは、脳幹を含めた全体に及ぶと直ぐに心肺停止になり脳死と呼ばれる状態になりますが、大脳だけにダメージが起こり脳幹が生きていれば単に意識が無いだけの状態になります。この場合が植物状態と呼ばれますが、意識が戻ることはほぼ奇跡に近い。奇跡は天文学的に確率が低いから奇跡なのです。先の延命措置の中止の項で書いたように、植物状態と脳死の判定は簡単ではありません。増してや小児相手です、尚更デリケートな問題になり、子供の治療を願う親、子供の回復を願う親、無責任に騒ぐメデイア、WHO、法律、医療費抑制、八方から攻められる医療はどう落とし所を見つければ良いのでしょうか?

「小児の意思」
15歳未満子供の民法の遺言能力規定の準用による意思表示能力の欠損
WHOの推奨は、本人の生前の意思表示が不明な場合、家族の同意があれば、いずれの年齢でも提供可能とする方法とされます。脳死を人の死と定義し、確実な脳死判定が可能であるのならば、遺体の埋葬方法を決めるように、家族がその方法を決めるのは既に意志を持たない遺体にとって当然の処遇なのかと思えます。特に15歳未満の意思表示能力とは無関係に思えます。

これらの議論の始めは、今年1月WHOが「臓器移植の自国内完結」を言い出したからです。
先の介護タクシーを利用する臓器移植患者の向かう先は海外です。残念ながら人の命の価値は、国によって異なります。日本であっても死亡時の損害賠償金額は違います。遺族の生活を守るために死亡者の経済力に見合った保証を行うのが理由ですが、それは取りも直さず命の価値の差なのです。
主に発展途上国等を中心に臓器提供ビジネスは、高額な値段を持って臓器の売買を行っていると聞きます。世界的に禁止されている人身売買のそれと大きく違わないような状況が報道されているのを見れば、WHOが自国内完結を言い出すのも当然と思えます。しかし、日本では臓器移植法の縛りで自国内完結には程遠い。そのための臓器移植法改正なのでしょう?

これまで攻殻機動隊ネタで、意識とGhost、Ghostと自己の特定、と言った脳機能の消失=自己の消失=人の死と定義するようなことを書いてきました。だから、近年の「脳死は人の死」と言う主張に異論はありません。しかし、何を持って脳死と判断するかにはやはり危惧を感じます。

先の読売新聞の解説では、八方塞で未来を描けないと言っていますが、期限を切って結論を急ぐような事をせず、ワイドショウネタには詰まらないものでしょうが、メデイアでも議論を尽くし、広く民衆の同意を形成した上、上っ面を舐めただけの法改正ではなく、臓器移植に係る全ての人に満足の行く形で進めて欲しいものだな、と思います。

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2009年5月23日 (土)

病状

義母は、膀胱癌でStageⅡ-b~Ⅲで膀胱全摘をしました。
細胞はGrade3(一番顔つきが悪い=転移しやすくコントロールが困難、くらいの説明で良いでしょうか?)が出ていて、その時点で平均余命5年でした。

術後直ぐに肺に転移が見つかり、一気にStageⅣに上がりました。この場合の平均余命は11ヶ月です。
直ぐに抗がん剤をフルドーズに近いところで3クール、それで転移巣は一応みえなくなりCR(Clear Response)でした。

1年後に新たな肺の転移巣が見つかり、フルドーズで3クール、これも幸いCRでした。
さらに1年後に、これまでとちょっと顔つきが異なる肺の転移巣が見つかり、"もう駄目かも?”と思いながらフルドーズで3クール、この時点でもう骨髄とかはボロボロの筈です。でも一応PR(Partially Response)が得られました。

その後、”次はもうシスプラチンに反応しないかも?”と低容量の外来維持療法を始めました。抗がん剤療法は、細胞周期の不感期に抗がん剤が入る、もしくは抗がん剤に反応しない細胞がある、などの理由で潰しきれない場合が多いのですが、何度も抗がん剤療法をすると最終的に抗がん剤に反応しない細胞だけが生き残って大きくなってきます。その場合、手の打ちようが無くなります。本来、抗生剤をダラダラ投与すると抗生剤抵抗性の細菌だけが生き残り、使える抗生剤が無くなるのと同じように、抗がん剤も低容量の使用には賛否両論がありますが、まだ日本で1施設でしか行われて居らず、nが低くて効果が定かでない(=エビデンスが無い)治療に賭けてみました。

でも1年半後に腰椎に転移巣が出てしまいました。効果が少しはあったと言えばあった、と言って良いでしょうか?しかし、ちょっと発見が遅れたせいもあり、抗がん剤でコントロール出来るサイズではなくなっていました。それに外来維持療法でさらにボロボロになった骨髄では、新たな抗がん剤療法を続けられる見込みも低い。そこで主治医と相談し、局所の放射線治療をすることにして、今日は放射線治療を行ってくれる病院を紹介してもらい挨拶と入院の手続きを取って来ました。これで、一応痛みのコントロールだけは出来るでしょう?でも、その先は、とてもミゼラブルです。

バイク屋の社長もそうでしたが、一度転移してしまった癌は、大腸がんの単発の肝転移を除いてコントロールが難しいようです。最終的に体力勝負になります。長期に渡り(=5年以上癌なしなら、完治と言って良いでしょう?乳癌は10年かなあ?)コントロール出来る人も多数居ますので、諦める必要は全くありませんが、義母は残念ながら厳しくなって来ました。

今年、引越しもあり、まだ一度も峠・蕎麦・温泉の3点セットに行けていませんが、この件が落ち着くまで行けそうにありません。まあ、梅雨が終わる頃には、痛みも消えて歩けるようになって帰ってるでしょうから、その時までは僕が倒れてしまう訳にも行かず、お預けに近いですかね?

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2009年5月16日 (土)

詰るのは簡単

ケンミレと言う投資コンサルト会社の森田健一氏が5月15日の「今日の視点」と言うレポートの『マクロで幸福に、ミクロで不幸に』と言う記事の中で次のように書いています。

「社員が失敗した時に、良く社員にいうことは、この失敗に対して悲壮感が出ているけど、1年もしたら『この失敗そのものを忘れている』し、大きな失敗でも10年もしたら忘れているよ、だから『失敗について悩むのは意味がないよ』と言います。

目先、上司に怒られるからとか、恥ずかしいからという理由で失敗を悩みますが、10年単位のマクロの発想をした時には『悩むことに意味がない』ということが分かります。
良い上司は『失敗を怒らない上司』です。失敗の原因と対応策を聞いて、それが良ければ『それで進んで』と言うだけで良いのです。悪い上司は『自分のストレス解消をしているのではないか』と思うほど部下をいじめます。

そして、部下をいじめるということは『部下がショックを受ける』ということであり、ショックを受けるということは『何も考えられなくなる』という意味であり、何も考えられなくなるということは『仕事をしない』ということであり、最終的には上司が怒れば怒るほど『会社の生産性が落ちる』ということです。

その社員が失敗から学べば優秀な社員になりますし、何も学ばない社員ならば、何時かは会社をやめますから、もともと縁がない人であり、縁がない人を怒っても無意味です。このような発想を持てれば、部下が間違った時に怒ることが『損』であり、怒る上司は会社に損害を与える上司ということになります。」

彼は、経営に関する本も書いています。面白そうなのですが、落ち着いて本を読む時間も取れないので読んでいませんが、その一部には似たような事が書かれているのだろうと思います。この引用文は、会社経営の観点から書かれていますが、この事は全ての事に当て嵌まるだろうな?と思います。

実際にミスをしたのではなくても、勘違いから詰られることはしばしばあります。勝手な期待を持ち、それに相応しくないからと詰られることもあります。大体そう言うことは、”実情を知らない”、もしくは”知ろうとしない”人達がやるのですが、詰られるほうはいい迷惑です。

元々の状況が悪い中、ほぼラッキーと言えるような状態で数回巧くいってしまうと、次に巧くいかなかった時に詰られたりします。

或いは、元々巧くいく期待値が殆ど無いのに、また、数回続けて巧くいっていないのに、"次は巧く良くかも”と期待します。そしてまた、巧くいかないと詰ります。

将来の事は予測が付きません。それは素人であっても玄人であっても同じです。玄人は、詳しい分少しだけ予想しやすい、くらいでしょうか?それでも必ず予想があたる訳ではありません。

経験的には、あまり予想を語らない方が良い。
悪い方の予測と良い方の予測を話し、その間に落ち着くだろう?と言っても、良い予測の方しか覚えていません。そして”予測より悪い”、”それはお前のミスだろう”と詰ります。

これらの「怒る」とか「詰る」の結果は、「保守的になる」と言うことでしょうか?
会社経営に係らず全ての事に言えることだろうと思うけれども、守ってばかりでは先はジリ貧です。攻めて行かなければ発展は無いのです。現状維持も悪くはありませんが、多少は攻めないと相対的に悪くなります。だから、下手に怒ったり、詰ったりして相手を保守的にしてしまうと結果は自分の不利益として返ってきます。

ミクロな視点から、怒ったり、詰ったりするのは簡単ですが、マクロな視点からはそれは不利益でしかありません。森田氏は何時も面白い視点で物を言いますが、今回の記事は、「巧い!」と思わせるものでした。

ここのところ嫁さんは、義母の病状のためか、常にけんか腰で話をしてきますが、元々の病状を考えれば世界平均の3倍以上治療は巧くいっています。今回多少のミスは認めますが、予想の範囲で巧くいかなっかった。素人の嫁さんは、先に書いたように全てが100%で巧くいくことしか考えていません。一番不利益を被っているのは義母です。先には苦しい治療が待っていますが、耐えなければさらにその先はありません。

締めは唯の愚痴になってしまいましたが、「いい時もあれば悪い時もある」とマクロな視点を持たなければ、心安らかに生きては行けませんよね?

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2009年5月10日 (日)

我思う故に我あり

デカルトのパクリですが…
攻殻機動隊の電脳とGhostについて、とでも副題をつけましょうか?

映画six senseやGhostのように死後の世界を扱った物語は沢山あります。言うまでもなくそれは、想いを残したまま死に行く我が身の願望なのでしょうが、必ずしも願いは報われないだろうな?と思います。

先日、急性心筋梗塞で心肺停止になった知り合いに、三途の川を渡りかけた感想を聞いてみたところ、凄く良く寝た、でした。幸い脳にダメージがなかったから、死んでいなかった、と言えば、唯眠っていただけなんだろう?

この物語の中では、サイボウグの電脳に宿るGhostとして、思考だけが肉体を喪失しても生き残る事を想定しています。まあ、SFアニメなので何を想定しても構わないのですが、原作者である士郎正宗がどうやってこの構想に辿り着いたのかは興味深い。

思考自体が脳と言う生体が創り出すものですが、実体が消失した時に思考だけが残るかが論点になるでしょうか?

流石にSFアニメでも、何も実体のないままでの思考の残存は考えにくかったようで、生体脳であれ、電脳であれ、AIであれ、ネットであれ、何かしらの媒体に宿るものと定義されているようです。
また、記憶と思考エンジンだけで個人を定義してしまうと、個人の死を定義出来ませんので、Ghostの有無を個人を特定するものと定義したのかも知れません。

原作者が永遠の命を想定していたかは不明ですが、生体脳以外の媒体に思考≒Ghostが宿るのであれば、遠い過去からの人間の夢である不老不死が実現できます。残念ながら、生体である肉体を維持したままと言う訳には行かないようですがね。

体細胞クローンなるものは、自分のコピーを作ると言う意味では個人に永遠の命を与えることにはなりません。体全体のコピーを作るのでは、同じ遺伝子を持つ自分とは異なる個人を作ることになるので、自分の壊れた部品取りにでも使うのでしょうか?言い方が悪いですね。初めから全体ではなく部品を作れば良いのです。それなら一定の役には立つでしょう。

物語の中では、生体であれ、機械であれ、体は部品でしかなく、肉体はGhostを宿す器に過ぎません。自己の特定は思考≒Ghostの存在であり、それは過去の偉人の言葉「我思う故に我あり」と想いが通じるのではないかと思えます。

実際物語の中には、年齢90歳のロシア人スパイが登場しますが、Ghostさえ宿り続ければ、自己として特定しうる永遠の命を得られるでしょう。
残念ながら、僕の脳が朽ち果てるまでにGhostを宿せるような電脳が出来そうな気はしませんが、滅び行く脳と格闘している身としては、肉体が朽ち果てるまでは自己を維持して居たいものだなと思います。

追記:
デカルトの言う「我思う故に我あり」は、
「今ここに私が思惟している以上、その、思惟している自分の意識体験は実体として存在するとしか考えようが無いではないか、だからこれを絶対に確実な第一原理として考えよう」
と言った意味だったようです。哲学者である前に数学者、物理学者であったデカルトは、自己を定義づけることで仮説を立てた、と言うことなんでしょうかね?

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2009年5月 5日 (火)

新規着工は凍結されていたんだ?

日立に帰るのに北関東自動車道なるものを通って見ようかと思って、通常は関越・外環・常磐道を通るのに、いきなり東北道を目指しました。
もうとっくに繋がっているかと思ってましたが(ちゃんと確認していませんでした。)、大田桐生から桜川筑西までは全然繋がってなくて、所沢から桜川筑西までナビを頼りに下道を走っていく羽目になりました。(馬鹿ね♪)

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筑波山を西から見たのも久しぶりなら、こんなに空いている高速も久しぶりでした。まあ、車で一人旅も相当久しぶりでしたが・・・

東北道と常磐道が繋がるのが20年12月、関越道と東北道が繋がるのが23年だそうです。でも、北関東自動車道が繋がってくれるより、県央道や外環が千葉まで繋がってくれるほうが嬉しいかな?そうすれば、千葉もツーリングコースの仲間入りです。これまで関東は、東西の交通がからっきし駄目でしたが、外環、県央と東京を遠まわしにする環状線が完成すれば、随分と無駄な時間の削減になりますし、多分その方が温暖化にも貢献できるかも知れません。

小泉内閣の時に高速道路の新規着工が見送られていましたが、何やら景気対策と銘打って着工が認められるようです。高速道路は、民営化までは通行料の上がりでしか高速道路を造れませんでしたが、民営化の際に採算率の悪い区間の整備のために税金を投入できる仕組みが出来上がったようです。

これ以上国の借金増やしてどうする?とも思えますが、景気対策も必要です。インフラ整備は重要な景気対策ですが、幾ら繋がっていないからといって、この空き方を見ていると、"本当に必要か?”とも思えます。何だか、単純に便利になるとか言ってられない気分です。

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