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2010年2月

2010年2月16日 (火)

思えばあまり夢の無い少年だった

幼稚園から小学生の時に家に帰ると誰も居ない家に育った僕は、少年少女百科事典の科学の部を毎日読んでいる変な子供だったらしい。その頃読んだ蒸気機関やガソリンエンジンの構造、水力、火力、地熱、波力、風力、原子力(これは流石にあんまり良く解っていなかったようで、図を描いて説明できない自分が居たことを覚えている)と言った発電装置の構造、果てはジェットエンジンの構造まで、どうやって理解したのか未だに謎だが理解していた。何でジェットエンジンが回り続けるのかだとか、スロットルの理屈だとか、アフターバーナーを焚くと何で推力がドンと上がるのとか理解していた。空気を圧縮する力よりも爆発で空気(当時はそう思っていた)が膨張する力の方が大きいからタービンは回るののだと、だから、爆発点より後方に燃焼室は広がっていて空気の流れを後方に向けなければならない、空気が広がって行く方向にタービンの羽を構成すれば、同軸の吸気口のタービンは空気を圧縮できる、爆発力さえ与え続ければエンジンは回り続けると、当然今ほど高度な理解を伴っていたわけではないけれども解っていた。
でも、だからと言ってエンジニアになりたいと言う発想は無かったようである。単に解ることが楽しかった思い出がある。

中学生の時には、母親に無理やり行かされていた英語の塾と、学校の授業以外に勉強した覚えは一度も無い。進路指導で、”将来何になりたい?”と聞かれて、”特に何も思いつきません”と答えた場面も覚えている。”お父さんのように学校の先生になるか?”と聞かれて、”あんまり面白そうな仕事には見えませんね”と答えて顰蹙もかった。それで、結局何も考えないまま、兄と同じ地元の県立進学校に進んだ。

高校生になって、やっと漠然と建築物に興味を持ち始めて、何となく夢らしいと言えば夢らしい、建築家になって設計をやろうか、と思い始めた。
でも、業界の事を調べれば調べるほど、それはあまり魅力的な職業ではなくなっていった。(インターネットで自由に情報が引き出せる今の時代に調べたのであれば、それほど失望しなかったかも知れないが、当時の書籍に興味をそそるようなものが無かったのだ。)
そして途方にくれた2年生。
昼間は、デッサン力を付ける為に始めた木炭デッサンにどっぷり嵌り、夜はクラッシクギターでタレルガに嵌り、ギターの音が煩い夜中はフロイトの精神分析に嵌り、と高校2年生のときに学業をした覚えが一つも無かった。
3年生になると、大学受験に励む同級生を尻目に認知心理学と進化論にどっぷり嵌り、学校の成績は急降下。担任の先生に”本当に勉強しなくなったな”と言われ、”いいえ、勉強しなくなったのではなくて、最初からしたことが無いのですよ”と言って呆れられた場面を思い出す。自宅に私立図書館を作るのが夢だったその先生は、夢が叶っただろうか?

その後、一応大学受験をした僕は、幾つかの大学の建築学科に合格したが行く気にならず、浪人生活を始めた。(しょうもない奴!)
結局、建築学科以外で冗談で受けて見た今の職業に就いている。当時は、どんな職業かすら知らなかった。ただ、何でも良かったのだ。訳の解らない事をやって見たかった。

飛び込んで見た仕事はさして面白くも無い仕事だったが、転機転機で退屈しない仕事を任されてきたお陰で未だに辞めていない。僕を退屈させなかった教授は在職中に亡くなってしまったので、取り残された今はちょっと退屈しているが、今更他の仕事も出来ないよね?少なくとも子供たちが自分で稼ぐようになるまでは、辞められそうにない。

現在、何処が良いのか解らないけれども僕に連れ添っていてくれる嫁さん、子供を二人、一戸建ての家も手に入れた。稼ぎが良いわけでは無いが、特に暮らしぶりが悪いとも思わない。これが思い描いた人生かと言うと、それはさっぱり解らない。何せ、特に何も思い描いていなかったのだから。

”今後の夢は?”なんて聞かれても、やっぱり答えられない。
漂うように生きてきた人生には、もともと目標も夢も無いんだ。
先日、知り合いが長年の夢を叶えて宇宙飛行士になった。まだ、訓練中だが、遠い宇宙空間がちょっとだけ身近に感じられた。

思えば夢の無い少年だった。明確に、何かになりたい、と言うものが無かった。
子供の頃の夢が叶う人は、努力が報われたのか、ラッキーだったのか僕には解らないけれども、夢を持ったから実現できたのだ。
夢を持たない少年は、未だに夢が持てない。
人生をやり直すことは出来ないが、何か夢でも持たなければ生きる気力が湧かない気もする。
あと何年生きられるか解らないし、例え夢を持ったところで道半ばで終りそうな匂いがプンプンするが、夢を持つことが夢、みたいな変な大人が、夢を持たない少年の成れの果て的に居ても良いかな?なんて思う。

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2010年2月14日 (日)

トルシエの負の遺産か?

もうずっと前から思っていることだけど、日本のフォワードは動きすぎだよね?

ドイツのミューラーのように点を取るときだけ動くくらいの選手が出てこないかね?

逆に考えれば、そういう選手が上がって来れないようなサッカー環境が、走り回りすぎて大事なところで足が縺れるフォワードしか残らない下地なんだろうか?

少なくても、今の日本サッカーでは、後半逆転は無理だろう?

優秀な選手は沢山出てきたが、サッカーは一人でやるものでは無いのだろうから、連動しなくては点にならないだろう?どうも、特に劣勢になったときのイマジネーションの欠如か?と思われるような逆に動くような動きが全然見られず、途中で見る気がしなくなってしまった。

それにしても、トュウーリオは戦犯ものだね?

何時まで、ああ言ったプレイを続けるつもりなんだ?

韓国選手のいつものラフプレイを、何時になったら軽くいなせるようになるんだか?

戦前は、韓国監督の解任騒動だったけど、一転、岡田監督の解任騒動になるんじゃないの?

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2010年2月11日 (木)

やっぱり空力の奇才は頭脳明晰なんだね

20100211newey F1-Gate.comから転載。

F1-Gate.comにエイドリアン・ニューウェイのQ&Aが載っていました。http://f1-gate.com/redbull/f1_6446.html
ニューウェイが、雑誌の記事にこういう風に答えるのを今まであまり見たことがありませんでしたが、レッドブルに行って、クリスチャン・ホーナーのコマーシャリング概念を実践しているのかも知れません。
エイドリアン・ニューウェイは、空力のアイデアを中心に多くのチャンピョンマシンを生み出してきたデザイナーですが、この記事を読んでみて彼の思考プロセスのポリシーのようなものが垣間見れたな、と思いました。
単なる発想力だけだと、偶に成功するが失敗が多いはずですが、ニューウェイには”失敗だよね?”と思える失敗が少なく、3年位同じレギュレーションで開発を続けていると必ずと言って競争力のあるマシンを作ってきます。彼は、何かしら成功に導くためのきちっとした開発プロセスを持っているのだろう?と思っていました。そうでないと、開発は迷走する筈です。
レギュレーションが変わって、最初はいろんな解釈がデザイン上に現れ、一部は成功に近く、一部は成功から遠い、そして成功に向かって近距離を進むか、迷走するか、それはデザイナーの能力なのでしょう?最終的にグリッドに並ぶマシンは、カラーリングが異なるだけの、そのレギュレーションでの最適化の行き着く先として、同じようなデザインのマシンだけになります。ラップタイムは拮抗し、スタート順のままの行列レースとなり、F1はその魅力の一部を失います。
そしてまたレギュレーションが変わる。
この時、一番最初に正解に近いアイデアを出せるデザイナーが優秀である筈です。そしてニューウェイはずっと最終的に他のデザイナーに真似をされるマシンをデザインしてきました。

ちょっと、話は逸れますが、
F1のデザインには著作権がないようですので、結果が良いアイデアはすぐに真似されます。いろんなデザイナーが新しいアイデアを出してレースで結果を出すと、すぐに真似されます。ある意味みんなでデザインを出し合って、何年か経つとみんな同じデザインに纏まります。タイヤと同じようなワンメイクのようなマシンになります。
ですから、どうやっても真似の出来ないソリューションはエンジンとギアボックスだけなのでしょうかね?

FIAのボスは統一と言う言葉が好きだったようですが、標準タイヤに標準ECU、標準エンジンに標準ギアボックスのF1では、他のフォーミュラカテゴリのようにマニュファクチャラーが技術力をアピールする場ではなくして行きたいのでしょうかね?

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2010年2月10日 (水)

見たいものしか見えない

通勤に電車を使うようになってそろそろ1年が経とうとしている。
通勤時間帯に出会う人達の中には、

見たいものしか見えない、

聞きたいことしか聞こえない、

人達が大勢居る。

降りる人が山ほど居るのに入り口を塞ぐように立って動かない人、

扉が開くと同時に、降りる人を腕で押しのけながら乗り込んできて、空いてる席に突進する人、

人で混み合うホームで、自分からぶつかって来ておいて、文句を言う人、

後ろに人が並んでいるのに、携帯を見ながらのたのた歩く人、

入り口付近は押し合うような状態なのに、足を伸ばして座っている人、

子供の手を引くお母さんが前から来ているのに、突進してくる人(しかも子供を線路側に押しのけるように通っていくし・・・)、

歩行中禁煙と大きく書いてある道なのに平気でタバコを吸い歩く人(後ろに子供たちが居るのに、しかもポイ捨て)。

彼らには、他の人が見えないし、他の人の声が聞こえないようだ。

年代に傾向が見られなくもない。
60歳前後と20~30歳くらいだろうか?
ある年代とその年代に育てられた人達だろうか?
いや、そういうカテゴリでは括らないほうが良いかも知れない。

”これじゃ、足があるゴーストみたいだな”

と思う。

きっと、恥ずかしいと感じるところが異なるのだろう?
それとも、恥と言う概念すら忘れてしまったか?

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2010年2月 7日 (日)

この問題は、重いよね?

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死刑、「容認」が過去最高の85.6%に 内閣府調査
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20100206ATDG0601Y06022010.html
 内閣府が6日発表した「基本的法制度に関する世論調査」によると、死刑制度について85.6%が「場合によっては死刑もやむを得ない」と答え、2004年の前回調査より4.2ポイント上昇した。1994年の第1回調査から4回続けて過去最高を更新。「どんな場合でも死刑は廃止すべきだ」は前回から0.3ポイント低下の5.7%で過去最低だった。

 「やむを得ない」と答えた人に理由を聞くと「被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」が54.1%(前回比3.4ポイント上昇)で最も多かった。「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」(53.2%)、「凶悪な犯罪が増える」(51.5%)と続いた。

 殺人などの重大犯罪の公訴時効について、現在の25年が「短すぎる」「どちらかといえば短すぎる」をあわせると54.9%になった。「これくらいでよい」は22.5%。「長すぎる」「どちらかといえば長すぎる」の合計は10%だった。 (19:47)
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公訴時効の存在は、警察のリソースは有限であることの裏返しであるけれども、殺された家族の気持ちに時効なんて存在しない。

加害者の更生が主とされる刑法には、被害者の事など一つも書かれていない。少なくても数回読んだだけの僕には見つけられなかった。

僕が育った次代には、連日殺人のニュースが流れる日々は想像できなかった。声高に死刑が野蛮だ!先進国で死刑は流行らない!なんて事を言う知識人が増えたのは、ちょうどその頃からだろうか?

何をしても自分が苦しまない、痛い思いをしないと解っているならば、一方的な加害者に現実感はないだろう?彼らにとっては、非現実、夢のようなものなのだ。彼らにとって死刑は、ある意味唯一の現実なのだ。

殺人は残酷である。しかし、それは被害者になってみないと現実感がないだろう?残酷なシーンなどご法度なメディアでは、ニュースに現実感を伝える力はない。加害者は、被害者と同じ残酷さを体験しなければ現実感は喪失されたままであろう?そして、その残酷さを目の当たりにしなければ、現実感は伝わらない。

古代の「目には目を」や「市中引き回しの上磔獄門晒し首」、「お家取り潰し」のような刑罰は、残虐だし、野蛮とも言えるが現実感を伝える方法としては、十分な力を持つ。体験は、現実的な抑止力になる。

僕自身は、無差別殺人といじめをエスカレートさせた残虐な殺人は、それが未成人であっても、絞首刑でも足りないと思っている。それは人がやるべき行為ではないし、した以上は社会が守る必要もないと思っている。秋葉原の事件なんかは、謝って済むような問題でもないし、加害者一人を絞首刑にしても済む問題でもない。ああ言った人間を生んでしまう社会に問題があるのだ。

いじめは別に学校だけの問題ではない。むしろ社会の中のほうがいじめは多い。加害者となった彼にも同情すべき事項は、沢山あるように聞く。だが彼の被害者感情は、秋葉原のおよそ彼とは無関係な人に向けられるべきではなく、彼への加害者に向けられるべきであろう?

何の気なく言う事、する事が人に害を及ぼすことは誰でも知っている筈である。大概の人が無自覚か、自分に降りかからなければ気にしないか、既に意図的な加害者であるか。違法じゃなければ何をしても良い、捕まらなければ何をしてもへっちゃら、と言った感情は、必ずエスカレートする。エスカレートした人が加害者になることもあろうし、エスカレートされた人が加害者になることもあろう?

加害者に厳罰を加えるのであれば、彼を加害者とならしめた刑法の対象とならない加害者達にも罰が与えられるべきかも知れない。重大事件の裏には、必ず小さな事件が存在する。マーフィーの第一法則みたいなもんだ。刑法の対象とならない彼らの発言、行為こそが、連日殺人のニュースが流れる社会の敵なのだ。

解決する方法は、多分教育なのだろうか?
社会問題は、結果である。結果が望むものでないなら、それは何処かで間違えたのだ。
それは、効率重視の企業経営かも知れないし、核家族化による孤独かも知れない。いや、幾つかの言葉に置き換えられるような簡単な問題じゃないだろう?簡単じゃないから、間違えたのだ。難しい問題ならばみんなで考えればよい。重大犯罪、特に無差別殺人のような犯罪は他人事ではない。いつ何時自分や家族の身に起こるのか解ったもんじゃない。

死刑が増える社会を問うアンケートは、難しすぎてアンケートになり得ないだろうが、上記の新聞のアンケートでは、やはり何処か他人事、読者に現実感を与えられない、ニュースとして軽すぎるな、と思える。

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2010年2月 6日 (土)

もうすぐ

窓越しの日差しは、2月とは思えないほど暖かい。
晴れた空を見上げると、雲が勢い良く東に流れていく。
窓を開けると、風の鳴る音が聞こえる。
入り込む風は冷たく、乾いた冬の匂いがする。
先日里雪が降った。
春の足音、だろうか?

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