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2011年7月

2011年7月29日 (金)

港の見える丘を読んで

港の見える丘を読んで
http://www.kokurikozaka.jp/message.html

困ったな、何だか妙に共感してしまった。
宮崎監督と僕は同世代じゃない。高校生を違う時代に生きたのだから、”同じじゃあどうよ?”と思う。

自分の母校の前身は、旧制中学で自分が在籍していた時で既に50年、太平洋戦争の艦砲射撃で消火活動もされないまま三日間燃え続けた鉄筋コンクリートの建物を修繕して白く塗りなおしたものだから”白亜の塔”なんて呼ばれていて、文化祭の名前も”白亜祭”なんて名前だった。校舎は昭和初期の瀟洒な造りの建物で、特に講堂の半長円形のステンドグラスのような窓や図書館の3面が天井まである窓なんて、凄いお気に入りだった。午後、美術室と図書館のどちらかに行けば、簡単に僕は見つかる、そのくらい入り浸っていた。思えば高校生の時、建築家になりたいと思ったのもこの建物に出会ったからかも知れない。

文化部の部室は、映画のカルチェラタンと言われるような建物とは程遠い、木造の長屋のような建物だったけど、美術部と演劇部だけは校舎の中にあって、デッサンしながら見上げる美術室の窓の外の夕日は、残したい学生時代の一コマだったかも知れない。

残念ながら反対運動虚しく、安全上の理由で取り壊されてしまって、玄関のステンドグラスだけが”らしさ”を僅かに残す程度になってしまった真新しい校舎には、もう寄り付く気にもなれない。もっとも、僕達が在籍していた時ですら、授業中鼻をほじりながら天井を見ていた生徒が、天井に亀裂が広がってゆくのを見つけて、慌てて全員脱出して間一髪セーフなんて”天井崩落事件”や、西側の外壁に寄りかかってキスをしていたカップルの1mくらいのところに畳一枚分くらいの外壁が落ちてきた”そんなに激しかったの?事件”なんてのがあって、確かに危ない校舎だった。そもそも三日三晩燃えてたような建物が安全な筈も無いし、取り壊しも当然っちゃ当然だった。

懐かしさは、その場面が詰まった場所とセットで感じられるものなのか?校舎が無くなったら全然母校と言う気もしなくなった。思い出の詰まっていた筈の高校も、”どんな高校だった?”と聞かれて、”唯の馬鹿養成所!”とか答えている。

映画の中で描かれているであろう高校生達の学生運動のお陰で私服通学だった我々は、”熱意の足りない自由人”的な言われ方をしていたけれども、宮崎監督が描くような不器用さも直向さも、まるで足りないながらも、少しは持っていた。だから、拡大解釈してちょっとだけ共感できる。

と言うことにしておこうか?

この映画、CMで散々流れていても見に行く気にならなかったけれども、見に行ってみようかな♪

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2011年7月23日 (土)

戦友の死

彼は、職場の電算機システムを一緒に作ってきた戦友のような人でした。部署は違うんだけれども、それぞれの立場を背負って、ぶつかったり、力を合わせたり、その苦労故に解り合えるような、そんな仲間だった。

その彼が、癌になって、再発して、苦しんでいる姿は、やはり見ていて辛いものだったけど、彼は苦しみはそんなレベルじゃない。もう意識が朦朧としていた彼を見て、”お疲れ様、苦しかったろう?少しは休んだらどう?”と思った。でも、暫く休んだらまた戻ってきてくれそうな気がしていた。

今日通夜に行って、祭壇の遺影の笑顔を見たら、急に泣けてきた。

子供達もまだ一番下は、小学生かな?

やっぱりまだその歳は死んじゃいけないよね。

もう僕も前線を退こうかな?

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2011年7月22日 (金)

現実を生きる

現実を生きる

現実は、常に反現実を参照する。反現実とは、理想、夢、虚構である。(反現実の解説は、見田宗介の見解を借りている。)
大澤真幸が不可能性の時代と言う本の中で述べています。(本の中では、不可能性の時代を説明する一つのキーワードであって、「現実の中の様々な「意味」は、その反現実との関係で与えられる。」と書かれています。ですから、彼がその本の中で述べている事は、僕がこの後に書いているような事ではありません。僕は、唯キーワードを借りただけです。)
こう言う小難しい言い方は、簡単な言葉に置き換えてやるとイメージが湧きやすいですよね。

何を持って現実に不満を持つのでしょうか?不満には何かしら対比するものが必要です。それって大概自分の夢であったり、理想であったりすると思います。自分の思い描く夢だとか理想と照らし合わせて、現実がそれとは似つかわしくないと思うことが、現実に対する不満の根源ですよね?現実を生きることは、特に努力は要らないのかも知れませんが、何かしらを追い求めるのなら、その何かしらが夢であったり理想だったりするのかと思います。自分の思い描く理想なり夢が、現実を生きる方向性を与える物です。そうですね、例えば羅針盤のようなものです。こんな風に例えるなら解りやすいでしょうか?(虚構の説明まで入れると纏まりそうに無いので止めておきます。)

1st.GIGのタチコマの家出、映画監督の夢と言うエピソードの中で、映画監督との会話の中で少佐が「どんな娯楽も基本的に一過性のものだし、また、そうあるべきだ。始まりも終わりも無く、唯観客を魅了したまま手放そうとしない映画なんて、それがどんなに素晴らしく思えたとしても害にしかならない。夢は現実の中で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは、死んだも同然だ。(監督:リアリストだな。)現実逃避をロマンチストと呼ぶならな。」と言った言葉を覚えていますかね?
リアリストとの対比として語られていますが、娯楽の世界から出てこない、例えば引き篭もりや一部のオタクと呼ばれるような人達の現実的には無意味な知識を同好の志達のみの中で共有するような行動は、ある意味現実逃避であるとも言えます。それが、夢なり理想なりを追う手段の一つであるならば構わないのですが、現実と乖離してしまっては有害なだけです。

現実の中で闘う行為、努力なんて言葉でも良いかも知れませんが、それは、夢や理想に向かうプロセスと言っても良いかもしれません。それが現実を生きることそのものなんだろうと思います。

僕は、他人に対して批判的な物言いはするが、決して自分の言葉で語らない人が嫌いです。まあ、自分に自信が無いのかも知れませんが、何故ならそれは、決して何も生み出さないからです。批判は簡単に出来るけども、建設的な意見やアイデアを出すのは簡単ではありません。自分の言葉で語るの意味は、自分の考えやアイデアを出すことです。
以前のコメントのやり取りの中で、ブログを書く人≒満たされない人+表現する人と言った流れにしてしまいましたが、良いんじゃないでしょうか?満たされないことで努力を怠らないのであれば、それは紛れも無く現実を闘っているということですし、ブログの中で自分の考え方やアイデアを書くこと自体が自分の言葉で表現することですから。つまり、自分の言葉で語ること自体が、現実を生きることだと考えられます。

「人生においては自分自身が主役」なんて言い方を良く聞きます。通常、物語は、主役が夢に向かって進んでいくとか、冒険するとか、悩み葛藤するとか、ワクワクしたり、感動したり、共感したりするようなストーリーだから、見ていて楽しいのですよね?主役が脇役の夢に憧れるような姿を描くストーリーは、きっと見ていても楽しく無いと思うのですが、どうでしょうかね?

人生は何時終ってしまうのか定かではありませんので、必ずハッピーエンドになるとか、夢を叶えるとか、理想を具現化してしまうとか、そう言ったところまで努力し続けられるとは限りませんが、先に行って見ないと解らない。しかも人生は一回しか与えられていませんし、間違えたところまで戻ることも出来ません。また、途中から先を見通せるわけでもありません。
他人の夢に自分を投影するのも、まあ、その人の人生だと言えばそうなのですが、それって楽しく無さそうですよね?
僕は、夢を描いて、現実とのギャップをどうやって解消してゆくかをワクワクしながら考えてゆくのが楽しいですかね。そして、その中で何かを生み出せたら、最高にハッピーだな、なんて思うのですが・・・

ああ、そう言えば、理想とも夢とも言い難いですが、僕の現実を生きるプロセスの原動力は、知識欲です。そしてこれまで生きてきた中で、何かを生み出せたのかどうかは、結構色んな事をしてきましたが、流石にこれはあまり自信がありません。(僕のリアルネームで検索を掛けると結構色々なものが出てきます。)

書き終えて読み返してみると、何だか、何を言いたいのか解りませんね?
書き始めたときは、大きな夢を持たない自分の行動プロセスを、夢と現実を対比させることで定義付けしたい、と思って書き始めた筈です。書くことで思考を纏める、何時もの僕の行動パターンです。大体何時も脱線しまくりますがね。(笑)まあ、大方、現実逃避を批判しているようです。

僕はかなりのリアリストらしく、TVゲームが嫌いです。シミュレーションのような現実に試すのが難しい事を仮想で試すようなものの有用性は高いですので、その為のコンピュータテクノロジーを進化させるためのTVゲームの価値は感じますが、特にストーリーを追って行くようなゲームをやること自体が無意味であるとか思っちゃったりします。だって、そのストーリーは誰かが考えたものあって、ゲームの中でどんな選択をしたとしても、開発者の想定した範囲を超えてストーリーを展開できる訳ではないからですよ。自分でストーリーを組み立てるから楽しいのですよ。

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2011年7月15日 (金)

外国から見るとこんな風に見えるんだろうね?

[FT]場当たり政治を耐え忍ぶ日本人

http://www.nikkei.com/biz/world/article/g=96958A9C9381959FE3E6E2E1948DE3E6E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E7E2E0E0E2E3E2E6E1E0E2
2011/7/15 0:00
ニュースソース
日本経済新聞 電子版
(2011年7月14日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
こんな記事がありました。
話の中身としては、”混迷は他国にもあるが”、”ますます孤立する管首相”、”誰にも明確なビジョンがなく”、”政治の空白で積み上がる代償”について述べていて、今のままでも他の国と同じように機能はするだろうが東北の復興好機を逃し、長期的な構造問題の悪化を”十分ひどい”と結んでいる。
外国から見るとこんな風に見えるんだろうね?

権力を持つと幼児化するのか?
周りが機嫌を取ろうと間違った事にでも言うことを聞いてしまうからだろうか?
元々常識が足りないから政治家になろうなんて思うのか?
端から単なる妄想狂なのか?
政治家の子供として育って一般見識が乏しいのか?
長く生きては来たけれども何も見てこなかったのか?
単に感度が低いのか?
想像力を持って見ると言う事を端から持っていないのか?
永田町のコミュニティに長く居ると感覚がずれてしまうのか?
日本人の潔さと言う美徳を考えたことも無いのか?
・・・

今時の日本の政治を見ていると嘆かわしい理由ばかりが思いつくが、それは日本以外の先進国?と呼ばれる国でも同様らしい。大体何処の民主主義国家でも表沙汰にならないところで専制国家的な行為が行われてきて、何となく表向きは民主主義を標榜できてきたのだろうが、あまりに民主主義が高度化、と言うよりは、情報の高度化に伴って裏工作がバレバレで出来なくなったからなのか、民主主義の”何も決まらない”と言う悪いところが目に付くようになってきたと思います。

選挙の時には、平身低頭、だから一般の国民は政治家は下僕か何かと勘違いしている。でも実際に政治家になってしまえばそれなりの権力を持つ。権力が人を変えるのか?急に偉そうに振舞うから、”何だあいつは!?”って思えるだろうか?しかも、偉そうにしている割には何も出来ない。向こうも”どうせ国民なんか馬鹿の集まりだから、選挙のときに持ち上げておいて当選してしまえばこっちのものだ”位に思っているのか、公約なんか知ったこっちゃ無い、自分の金儲けに奔走する。

いやいや、それなりに見識を持ち、きちっと将来の日本を杞憂して、何をすれば良いかを考えている政治家も居ることは居るのだ。民主主義故に他の堕落した政治家同様に何も出来ないだけだ。だから目立たない。

子供の平等は、努力してもしなくても同じだけ貰えるものだが、大人の平等は努力した分だけ貰えるものだ。特に日本では、子供の平等と大人の平等が訳の解らない事になっていて、働けるのに働かずに生活保護で悠々自適、医療費唯で病院に掛かり放題。一方頑張っても年収200万円にも届かず、病気になっても碌に医者にも行けず手遅れになる。これって平等じゃないよね?

あまりにシステムが大きくなりすぎた為にサブシステムが一人歩きする。職務に当たる人の責任感の欠如が、取りあえず数をこなせば良いんだろう?的にいい加減な仕事をする。
異なった方向から見れば、サブシステムが優秀な仕事をするから、国の政治が何も出来なくても、サブシステムが粛々(結構みんな好きな言葉だよね?)と仕事をこなし、何となくシステム全体の健全性を保って来たりしたのがこれまでの日本ですよね?
”俺達がしっかり国の将来を見据えて仕事をしなければ、この国は駄目になる!”なんて思って頑張ってきた公務員が駄目な政治家を益々駄目にしたような気もします。彼らが偉かったから今の日本があるとも言えます。

小泉さんくらいの時からだろうか?今の日本国民の求める首相像は、何か鬱蒼とした社会システムをスカッと解決してしまうような映画のヒーローのような存在に思っているだろうか?でも、現在の社会システム、政治システムは、ヒーロー(=殆どが単なる妄想狂で旗を振るだけで実際には何も出来ない)のような変な政治家が現れても、とんでもない所へ行かないように制限されている=とんでもないところを国民が求めても行けない。

どうも現在民主主義と呼ばれている社会システムは、設計は良かったのかも知れないが、メンテナンスがされてなくてちゃんと機能しなくなった超大型機械のように思えて仕方ない。
日本人の美徳は、ややもすると、部外からのチェックを良しとしない。いや、部外をチェックをしようとしない。それ故、勝手に動いていっても動かなくてもチェックされない。
超大型機械故に、部分的にちょっと壊れていたくらいでは大きく進路を間違えるとか、大きく機能不全にならないとか、そういった事でこれまで凌いで来たように思えるけれども、人間ドックの1週間コースとか、バイクのエンジンのオーバーホールのように、きちっとメンテナンスをして、可笑しな事になっているサブシステムを修理したほうがいい。その後は、定期点検のような規定値内に収まっているかどうかチェックして、規定値外なら部品交換や修理を行うようなシステムを組んだほうがいい。

現在、実は様々なチェックシステムがあるのだけど機能していないようなところが僕には目立ちます。それは、先の日本人ゆえの所業かも知れないし、日本お得意の安全側に振りすぎてコストが高いからチェックを逃れようとする連中が横行するようなチェックシステムの問題があるのかも知れないけれでも、チェックシステムが機能不全なことだけは間違いなさそうに見えます。

そもそも”絶対”なんて状態は存在しないのだし、"絶対”を言い出すときの人々の心理は、”何か隠したい”とか”責任を押し付けたい”とかですよね?
対策案の無い反対意見は、単なる文句ですが、首相が具体案を提示できずにインフラを止めてしまうなど持っての外だろう?これまで行政が行ってきたチェックシステムは信用できず、国外のチェック方法ならOKなんて、それはチェック自体は人がやると言うことを、重要なのは方法よりは、それをどう正しくするか?の方だと言うのを理解していないのだろう?まあ、何も知らないんだろう?と言ってしまえば簡単だけど・・・

政治家はどうしましょうねえ・・・少なくても国会は、国民が一人ひとりの政治家をチェックできるくらいの少ない人数にして、小選挙区を廃止したほうがいい。小選挙区の国会議員にお願いしたいようなことは、そもそも国ではなくて地方行政に移管したほうがいい。国会は国の将来を考えるところで、地元に利益を持っていく場と見ているような人たちを排除しないと、何も決まらない、国益の定まらない国になってしまう。
先のメンテナンスの話は、機能不全に陥っているサブシステムを思い切って捨ててしまうとか、エンジン一つで4WDするのではなく、インナーホイールモーターのように地方に動力をあげてしまうような改造が必要だろうと思います。

そうすれば、国外から、日本は物やゲームだけでなく、政治システムまで輸出し始めた、と言って貰えるようになるだろうか?

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