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2011年11月

2011年11月30日 (水)

日銀は通貨の発行量を増やさないだろうか?

為替相場は、国の資産価値に対する通貨の発行量で決定されると言われる。現在、ドルやユーロに対して円高になっているのは、アメリカやEUの国々の資産価値に対して通貨の発行量が多いと判断されているからと考えられる。

日本は、現在デフレに苦しんでいる、と言われている。実際に売られている商品の値段は下がっているし、平均給料もベースダウンしている。年金もデフレの影響で2.5%出しすぎとか言われている。

輸出企業にとって、乗り越えられる次元ではない、と言われるような円高を是正するのなら、アメリカやEUの資産価値に対する通貨の発行量割合に見合うように、日銀が日本の資産価値に対して通貨の発行量を増やせば良いのだ。結果として、円高是正、デフレ是正が起こるのであれば、その結果に何か問題があるのだろうか?

バブルの恐怖から日銀は二の足を踏んでいるのかも知れないけれども、20兆円くらい発行して復興財源にすれば良いのだ。そうすれば景気減速を強く懸念されるような増税とか言わなくて済む。産業空洞化を助長する円高を防げる。国内にお金が出回ってデフレも回避できるかも知れない。

僕が思うに良い事だらけだと思うのだが、何か問題があるのだろうか?

一説によると、財務省が増税を正当化するために影で動いている、なんて事も言われている。事の真相は判らないけれども、震災後の財務省の行動は、そう言う憶測を呼ぶようなものですよね?

日銀は、行政から独立しているのだから、財務省なんか気にせずやれば?と思うのだけど、どうだろうか?


本題とは異なりますが・・・
日本の資産価値が上昇して円高が始まってからも日銀が通貨発行量を低く抑えて円高を誘導しているように見えた時代がありました。ちょうど日米貿易摩擦が取りざたされていた時代だと記憶しています。これはつまり、日銀主導のアメリカへの利益供与と看做すことも出来きます。実際のところどうだったのかは解らないけれども、アメリカの公文書公開期限が過ぎて公表されれば事実が公にされる日が来るかもしれませんね。仮にそう言う密約があったとして、しかもそれが現在も有効であるならば、現在の日銀の行動もそれに乗っ取った行動である、なんて憶測も可能です。
まあ、正直なところ、さっぱり解らないんですがね。(笑)

それともう一つ、最近中国に抜かれてしまったようですが、日本はアメリカの長期債を沢山持っていて、資金を引き上げる気も無いようですから、これも支援と言えます。違う見方をすれば、アメリカのアジア戦略なのか、日本の平和憲法の顔を維持したままアジア地域での軍事力を維持するためなのかは判りませんが、日本の本来必要な軍備をアメリカ軍に頼って、その分の軍事費をアメリカに出している、と言った側面もあるかもしれません。だから、まあ、簡単には行かないんでしょうね?

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2011年11月24日 (木)

書くこと

頭の中で思考を廻らせ回答を得ようとする時は、何となく結論に帰着しやすいと感じることが多々あります。
でも、その思考を書き残して見ると、結論に対して論理矛盾を生じている、もしくは、仮説と結論が乖離してしまっている、なんて事が度々起こります。多分、脳は適当なところで辻褄を合わせようと無意識に反応しているのではないか?と言う疑念が湧きます。

脱線します。誰かに教える立場に立って何かを教えたことがある方はお気づきだと思いますが、誰かに何かを聞いて理解したのと、教える場合に必要な理解では、その度合いがまるで異なるレベルにあると理解されていると思います。詳しく理解していないと教えられないのです。唯話すのではなく(相手が理解できようが出来まいが知ったこっちゃ無い)、相手が理解できるように話すのが教えることですので、難しい話を難しく話したので意味がありません。(もっとも難しいまま話して理解できるレベルの人達に話すのなら、それでも良いかもしれません。そういう人達に話すのなら、観点を変えたときの話を交えるだろうか?)

教えるときには、仮に一つの言葉を使うのにしても、この言葉を使ったら、連想としては何を浮かべるだろうか?それは理解してもらいたい事柄に対して適切な連想となるだろうか?なんて事まで考えて話を練ったりします。(教えるのではなく、研究報告のような場合は、データ的に自信がないと”であります”と言わずに”と考えられます”とか言って逃げを打つような言い回しの役にも立ちますが・・・そんな報告するなよ!)

まだ、脱線中です。難しい話を噛み砕いて解りやすい話に纏めるには、直感的に解りやすい話で理論を組み上げて行かないと理解が得られません。例えば、今日の日経新聞の村上憲郎のグローバル羅針盤と言う連載の中で使われていた「受動意識仮説」と言う言葉を聞いた時に、さっと記憶が甦って”それはこう言う事だよ”と言えるようにはなりません。理解ってそういうことですよね?
言葉を聞いた時に直感的に思い浮かぶ記憶の集合体、もしくは、芋づる式に呼び出される記憶の集合体が形成されている状態が、理解している状態なんだろうと思います。

頭の中で思考を巡らせる時に、記憶されている理解の集合体を紐解きながら理論展開してゆきますが、どうも結論に対して都合の良いほうに紐づいていってしまって論理破綻を来たし易い。結果として独り善がりな結論が出てしまう。

頭で廻らせる思考を書き残してゆきます。そうすると、辻褄が合わなくなっている部分や、途中の理論で理解が十分でなかったりする部分が目に付くようになります。書いてみて初めて途中で論理破綻していることに気づいたりもします。
この文章も2分で考えて、10分で書いて、30分経った今もまだ推敲中です。

よく書いて覚えるなんて人が居て、単純に、例えば漢字を書いて覚えるなんてのは、体が勝手に動く状態にすると言う意味合いと記憶を強く形成すると言う二重の意味があるかと思います。
これとは別に、書くことで確実に理論を組み上げて行く、確実な理解を形成すると言う意味で、書く事は重要だと感じています。確実な理解が次の理解を積み上げてゆく。脳の中で理解しただけだと、どうも後から記憶を引く出してゆくと途中で論理破綻しやすく、次の理解の妨げになります。

脳はかなりいい加減な反応を起こしやすく、言葉に反応して呼び出される脳の記憶の中から意識が都合の良いところの反応だけを拾い上げて記憶として残してしまうのかも知れません。この辺りの話は解説しませんが、慶応大学大学院の前野隆司先生の著書「脳はなぜ『心』を作ったのか―『私』の謎を解く受動意識仮説」(2004年 筑摩書房刊)を読んでいただくと、ああ、こういう意味のことを言ってるんだろうか?なんて思って戴けるかも知れません。

僕の脳が”大したこと無いね?”と言われてしまうような脳だからなのかも知れませんが、僕にとって書くことは、”脳が適当なところで辻褄を合わせてしまうのを防ぐ”と言う目的で書いています。

そんなこんなで、PCのArchiveにあるこの手の独り言のような記事だけで、ホルダーのテキストファイル数をカウントすると軽く1,000を超えてしまっています^^
まあ、過激すぎて載せられないような文章や、この文章のように面倒だから文章同士の繋ぎを書かないような文章が多いのですがね。だから、この文章も載せるか載せないかのボーダーライン上にある文章です。載せちゃいましたが・・・

ああ、「受動意識仮説」と言うのは慶応大学大学院の前野隆司先生が説いている説です。ここでは解説したりしませんので(僕の理解は読まないほうが良いと思われます)、Googleででも検索してください。

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2011年11月16日 (水)

怪我人が出なくて良かった

北朝鮮戦は負けてしまったようだけど、グループの最終予選進出と予選落ちの国は既に決まっていたのだから、単なる消化試合でしょ。
日本は新たな布陣を試せたし、それに一応の手ごたえもあったようだから、何も問題が無い。

それより、相変わらずの北朝鮮のラフプレイに怪我人が出なくて良かった。

それから、退場を宣告した審判は、もし北朝鮮が負けていたら生きて出国できたかな?
そう思えるくらい危ない雰囲気でしたよね?

ちょっとだけ癪なのは、北朝鮮の国民を鼓舞するような口実を与えてしまったことだろうか?

それから、FIFAは、対戦国をきちっと迎え入れられない国に開催や参加を認めても良いのかをきちっと考えるべきだろう?
一切ラフプレイはしない、荒れたピッチしか用意出来なくとも賢明に整備して対戦国を迎えようとするタジキスタンと比べてどうだろうか?
タジキスタンは、尊敬に値するのだが、北朝鮮は、ねえ?

日本政府があんなことをしたら、メディアは挙って”国際社会に対して、日本の面汚しだ!”と騒ぐだろうけど、インタビューで将軍様のお陰とか発言するなんて、少なくとも日本じゃ考えられないよね?

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2011年11月11日 (金)

大阪市長選は楽しいね

橋下さんは、行政の変なところを”変だだから変えよう!”と言っている。過激な改革をしようとすれば、どうなるか解りづらい。何となく不安だから、特に安定した老後を送りたいとか思っている老人達からは支持されないだろうな?
平松さんは、これまでの方法を続けながら改善を図ろうとしてるのかな?場合によっては、既得権益に守られた人たちの代弁者かも知れない。

イタリアの既得権益が改革の足を引っ張るように、日本の国政もこれまでの方法論が行き詰ってるのだから変えるしかないのだが、相変わらずの支持団体の顔色を伺う議員の反対でTPP参加交渉参加に二の足を踏んでいる。参加交渉でこれである。参加を決めたらどんな抵抗があるんだろうね?

国民全体の生活水準に合わせるには、農家一軒当たりの耕作面積が少なすぎて、世界一じゃない?と思える耕作能力をもってしても、補助が無ければ生活水準が保てない。
現在の農家の土地所有を認めつつ、耕作地の集約、農機の集約、経営効率の改善、流通の高収益化等、将来どうなるのか?をきちんと説明し、その施策を継続される約束がされなければ、農家に理解もされないだろうし、TPP参加で農家は潰れるだろう?

これまで農家が一軒ずつの経営で効率が悪かった部分を改善しなければ、幾ら食料自給率の改善を歌っても、農業が国家の負担になるだけだよね?
既得権益を有する人たちは、権益が無くなった時にどうなるのかの道筋が解らなければ、生活が出来なくなる、当然反対するだろう?

日本の政治は安定していない。政策の継続性の安心感が無ければ、どんなに良い政策であっても受け入れられないだろう?日本の農家が”それならOKだよ”と言うような方法論を提示出来てTPPに参加した途端に、政権が変わって方法論は語和算でTPPだけ残るような心配が生まれる。当然二歩足を踏むだろう?

55年体制と揶揄される自民党の長期安定政権があったから、日本は繁栄したのだ。でも多くの政府機関が、国民のためではなく、機関のために動いてしまったために機能不全になって、国民は改革を求めたのだろう?
メディアは挙って、野田総理のTPP交渉参加の発表見送りに、政治指導力の欠如を騒いでいる。でも、政権の政治指導力の無さは、国民にとっては政策が何時まで続くのか解らない不安をあおりますよね?
メディアすら、国があってのメディアなのだ。君たちがしていることは、民衆の味方を気取った”国潰し”と言えなくもない。

殆どの国民が、農業には何か施策を考えて、TPPに参加しないと国として成り立たないのではないか?と思っているだろう?でも、賛成できるだけの安心感が今の政府には無いのだ。
民主党は自民党を出た人の集まりだから、特に上層部は自民党時代の手法から逃れられなくて、失態ばかりが目に付く。でも、「まだ自民党の方が良かった」と思う人は居ないだろう?自民党じゃ駄目なのは既に解っているのだ。
リーマンショック、大震災、ヨーロッパのソブリンショック、超円高が日本に改革を迫って来ている中、挙国一致(嫌いな言葉なんだけどね)でもしなければ、乗り越えないだろう?
今の民主党に必要なのは、ひいては日本に必要なのは、指導力が高い首相ではなくて、党内結束と長期安定化なのだ。

平松さんは、「橋下さんは、批判だけしかしない。批判するのは簡単だ。」と言って、大きな変化に不安を持つ人たちを味方に付けているが、緩やかな改善なのか?何もしないのか?はっきりしない政策では、日本一住み難いとか言われてしまっている大阪市を改革をするのは難しいだろう?
でも、橋下さんのアイデアは急進すぎて不安なのだろう?でも大阪の人たちは、多分、「もうどうにかしなければならない」と思っているだろう?橋下さんの話が魅力的だが不安だと思う人たちは、平松さんではもう駄目だ、と思って居るのだろう?

きっと大阪市長選は、今の日本の縮図なのだ。そうだとすれば、まだ若くて長期政権が可能な橋下さんに任せたほうが、長期的な政策の安心感を与えるかも知れない。まあ、橋下さんの一番の問題は、彼の周りに居る議員や職員が、彼のアイデアを具現化できるほどのポテンシャルを持たないことに気づいていないことだろうか?

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2011年11月 6日 (日)

もう十分生きた

もう十分生きた

これまで生きて来て、夢も命も儚いものだと思うようになりました。職業柄、人の命を常に見ているからと言ってしまえば話は簡単ですが、夢も命もあっけないほど簡単に失われます。どんなにもがいても、どんなに悔いが残ろうが、それは来てしまいます。

若い頃から執着心が低かった僕は、生きることにも執着がありませんでした。そもそも、”生きる”なんてことについて考えてもいませんでした。人が生きると言うことを真剣に考えるようになったのは、この業界に入ってからです。 大きな怪我は、あっと言う間にその人の夢や命を奪います。その人を頼りにする人達を巻き込みます。死に至る病気は、じわじわその人の自由を制限して行きます。そして一つずつ夢を奪い、最終的に命を奪います。

時間が残っている間に色々やるチャンスは残されている分突然よりはマシとも、真綿で首を絞められるようなところが良くないとも思えますが、それって普通に健康に生きていてもあまり代わり映えはしませんよね? 多かれ少なかれ人の命は果てます。まあ、そのことについては色々な意見があるだろうな?とは思いますが、過去にどんな選択をし、この先どんな選択をしようと、多少の差はあれど必ず命は果てます。どんなに望んだところで永遠の命は存在しません。

自分で望んだ訳じゃないけれども、命を得たからにはどんな形であれ全うする義務が生物である自分にはあるだろう?と思う故に明日が普通に来るように毎日を工夫して生きています。ただ、努力でどうにかならないものは受け入れざるを得ない訳ですが、どう受け入れるかは各人の選択です。 僕は一般的な平均寿命の折り返しを過ぎた辺りに居ますが、それは唯の平均に比較してのこと、明日死んでしまうかも知れません。誰にも未来は予測できませんので、死んでしまったら死んでしまったで仕方ない。悔いが残ったとしても、もう何も出来ません。

僕にもまだやってみたいことは沢山あるけれども、出来なかったからと言って特にがっかりするようなことでもないですよ。一人の人間が出来ることなど高が知れています。自分が出来なかったからと言って嘆いても、これまでチャンスが無かったわけでもないでしょう?それを第一優先に選択して来なかっただけなのですよ。だから、それは僕にとってきっと重要じゃないのでしょう。出来ないと解ると惜しくなるだけなんですよね?

仮に今死んでしまったとして、ちょっとだけ残念なのは、家族の行く末を見守ってあげられない事だけでしょうか?でも、彼らは彼らなりに自分の人生を生きるでしょう?僕自身には特に未練はありません。まあ、だからと言って自殺をしたり、自ら死にそうな事をしたりする訳では無いですがね。(笑)

本来”もう十分生きた”なんて事は、死が目前に迫った時に言い出すのかも知れません。でも、人生何が起きるか解りません。今、こうしてキーボードを叩いていても、自分の命は明日尽きるかも知れません。

一般的には、死を迎えるときに意識が残っているとは思えません。たぶん死ぬような怪我をした瞬間に脱力して意識がなくなるでしょう?怪我じゃなくても、脳出血でも心筋梗塞でも”何だ!?”と思っているうちに意識が無くなるだろう?と思います。だからきっと、意識があるうちには死ぬとは思っていないでしょうね。死ぬ間際に感慨に耽る暇が無いのが予想されるなら、今の内に想いに耽っておこうかな?

仮に死に至る病気になって、”もうそろそろ意識を保っていられなくなりそうだな?”と思った時、”もう十分生きた”と思えたら、それが自分の夢や希望に沿ったもので無かったとしても、満足感を持って死を迎えられそうだなと思います。

闘病生活が苦しいものであったとしても、その瞬間だけは充実感を持った優しい顔つきに成れるのではないだろうか?そんな風に思えます。

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