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2013年3月24日 (日)

ポリシーとして安全は無いと決めた方が良い

読売オンラインに原発事故以前における経産省の考え方を端的に示すような事が書いてありました。

「原発重大事故はない」と経産省、拠点対策せず
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20130323-OYT1T00584.htm?from=blist

何かを正当化しようとする時にベースに嘘があれば、先々に嘘を塗り固める必要があるだろう。

原子力発電所なら誘致する時に多分”絶対安全だ”と言って誘致する。
40年前に作られた嘘は、その後も”嘘だった”と言うことは出来ない。

かつて原発誘致にお金がばら撒かれ、未だに補助金無しでは立ち行かない自治体が殆どである。
それは、そう言う所を狙って誘致されるから、もしくは、その時の自治体の首長が何かを望んで補助金と引き換えに誘致したからだが、そもそも絶対安全なら誘致に補助金は必要ないだろう?

40年前の安全性など今時全く当てにならない訳だが、その後、実は安全ではない事実が発覚しても、隠密裏に対策が取られることがあっても、安全性を否定するようなことをオフィシャルに言うことは出来ないだろう。
オフィシャルには絶対安全、でも本当は安全性を保証できないから保証金のような補助金を宛がう。

首都圏の消費者は、お金で危険を地方に押し付け、地方はお金で危険を買う。危険を買った張本人も売った張本人も現在はその職に無いが、その時つかれた嘘は「行政のやることに間違いがあってはならない」から上塗りされる。誰もがダブルスタンダードと思っても、止めることも出来ない。そんな構図が見て取れる。

この記事のように、外部から指摘されたとして、それにに沿って対策を取ったら”絶対安全”の嘘を認めることになってしまう。
「大規模事故は起きない」事が前提にされているなら、大規模事故が起きた時に必要な対策にお金を出す訳には行かない。それは議会が認めないだろう?無責任な野党は、足を引っ張るだけの目的で、こう言った事に積極的に突っ込む。当然、安全でないことなど解っていて、二重三重の安全対策に対して前提条件を盾に騒ぐ。

別に原子力行政だけではないだろう?
全ての行政に関する全ての施策に同じような事が言えると思える。「行政のやることに間違いがあってはならない。」
この前提が良くない。近年の権利者意識の高揚は、間違いは即保障に繋がるから、尚更だとも言える。

権利と義務、権限と責任は常に対極にある。

電力会社の役員、国会議員、それを選んだ国民、地方の首長、それを選んだ住民、首都圏の消費者、それら全てが無責任な行動を取ったと言える。今回の事故にに対するこれらの人々の義務は、「今後絶対安全は無いから、新たに解った事実に対しては速やかな行動を取る事を容認するポリシーを守る。」そういう事だろう。
首長や国会議員の間違いは、そのらを選んだ国民にある訳だし、その首長や国会議員が間違いを犯さないように監視する義務もある。それぞれがポリシーに沿って責任を果たせば、こう言った馬鹿な構図は生まれない。

無責任の蔓延がこの国の一番の病魔なんだろうと思う。

追記:この厄介な正義感は普段の生活でも、自己欺瞞を厳しく問い詰めるから、自分の生活に安らぎが足りなくなるわけだけれども、どうだかなあ・・・それでも温いところは温くて、”まあ、仕方ないよね”と言って無闇に他人に対して突っ込まない。当然それによって自分も正義感を全う出来ない。だから、解っている範囲で人に危害が及ばないなら、”まあ、人がやることだからしょうがないね。”って思って諦める。自分ひとりで社会を変えられる訳でも無いし、自分の望む社会が人々の望む社会であるとは限らないのだから、自分の意見も単なる個人の意見だ。社会の構造は多くの意見の中で受動的に形態をなすのだから、誰かがこうあるべきだと言って能動的に決められる訳ではない。社会は勝手に変容してゆくものなんだろう?だから、僕が"こうあるべきだ!”なんて言っても、そんなの唯の独りよがりだ。

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