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2014年1月24日 (金)

何もしない罪

何もしない罪

昨日、永遠のゼロを読んでそう思った。

紹介されている話は、どこかで聞いたことがあるような話しが多くて、以前読んだ事があったろうか?て思える程だったが、それは太平洋戦争の軍部の拙い話や新聞の今も犯し続けてている罪に付いて僕自身が既に十分な知識を持っていたからだろう。
ここで特攻の事を書く気は無いけれども、あんな事をさせる奴は狂っている。彼らこそが戦犯と呼ぶに相応しい。

もう一つ、それは今も続いている日本人の拙い文化だが、何もしない罪だ。
恐らくは永らく続いた武士の時代の悪しき慣習と利益享受者達の馴れ合いが昭和初期に一番拙い形で現れたのだろうが、時代が時代なだけに悲劇になった。
誰も死にたくは無い。何かやって失敗すれば腹を切らされるけど、何もしなければ職を追われる事は無い。
人生一度のミスは切腹で家ごと免罪の文化は、失敗を恐れる文化になったと思われる。
またそれは、腹を切らせてご和算にし、原因調査を疎かにする文化だったろうか?
先の失敗を恐れる文化は、利益享受者同士では次に自分がやった時の免罪符の代わりに責任追求の温さに繋がる。ともすれば、失敗の隠し合いになる。
近年のすぐ思い出される事例は、薬害エイズだったり、原子力行政だったりするのだが、僕が知らないだけで幾らでもあろう?先の二つの事例は、相も変わらず未だに責任追求がきちんとされていない。
原因調査委員会とか出来ても、何故か個人の不作為に対してメスを入れない。何だか責任追求をしないのが美学のような印象も持つ。
結局ちゃんと原因究明されないから同じ事を繰り返す。何も変わらない。
新聞も一時騒ぐけど、遅々として進まない原因調査や対策に飽きて、継続的な記事としない。何かするにはお金が掛かり、予算とそれを取り巻く法律に縛られて、数年で済めば早い方かと思うほどである。でもその頃には、何の話だったのかも忘れ去られている。
だから、あんまり真面目に責任追求しても、既に誰も注目しない。
特に民放に属するメディアは、売り上げの為には何でもする。そして飽きられないように次から次から新しい話題だけを提供する。

日本人の飽きっぽさには、何時もビックリさせられるけれども、これはメディアが齎した災禍なのではないか?

戦争の災禍は悪い官僚主義と事の本質を報じない新聞が齎したものと思えるが、それらは60年経っても変わらない。
軍は命令と言う狂気で人々に災いを齎し、新聞は売り上げを伸ばす為に人々を熱狂させる。熱狂は軍を後押しし、巨大な災禍になる。そしてその責任は人々が馬鹿げた死をもって負わされる。まるで虫けら扱いだ。
僕自身も大人になって、叔父さんが死んだインパールがそんなくだらない作戦によるものだったのかと知って腹が立つ。三人の叔母さん達が、未亡人になり、その後十年経っても物音に旦那が帰って来たのではないか?と思ったらしい。それらを強いた連中が戦後真っ当な職につき、優雅な生活を送っていた場合などは尚更腹が立つ。

何かしないと拙い事になるのが解っていて何もしないのは罪だ。
今すべきは、悪い官僚主義とメディアの責任追求だろう。

(官僚がする事は決して悪いことだけではなくいい事もあるのだが、こう言う場合メデイアは悪いことしか拾わないですよね。それも一つの罪と考えます。)

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