発明品

2016年8月30日 (火)

コントロールするスキー

このスクールの昔からの特徴は、どんな斜面でもスピードをコントロールしながら自在に滑ることだろうか。
楽なポジションを取り、強いエッジングはしない。エッジグリップの低いところでの急激な操作はグリップを失う原因になるから、緩やかに操作をする。それはタイヤと路面との関係とも同じだよね。グリップを失わないようにコントロールする。ただスキーなので、グリップと言うよりスライドのコントロールと言った方が正しいよね。
ポジションコントロール
スキーの理論まで考えてスキーをするようになった頃に乗っていた板は、2mオーバーのスラローマやスーパージャイアントスラロームの板だったので、トップから入れてテールに抜くような操作のためにガチガチに硬いブーツと乗る位置を変えても体が遅れないための筋力が必要だったし、トーションがあまり高く無くて板全体をグリップさせないとエッジが逃げてしまうから尚更ブーツのシェルが硬かった。けれども最近は、トーションが高く、1.6m程度の板でサイドカーブはきつく、エッジは逃げないし、 ロッカーなるものが入っていてさらに小さく曲がり、乗る場所もあまり変える必要が無くなった。板の前後で構造も異なり、左右でもキャンバーとロッカーを別けるような板もある。この板、3日間乗ってみたが楽しかった。だから、ターンの間に大きく乗るポジションを変える必要が無く、土踏まずよりやや踵寄りの、ちょうど体の重心が乗る辺りに自然にポジショニングしていればコントロールが可能になった。流石に延々滑っているとお尻の筋肉が厳しくなるが、以前のように太ももの筋肉、背筋、腹筋をあまり使わなくなった。
グリップコントロール
これまでグリップコントロールと言うと、エッジが逃げないように出来るだけ広く雪面を捕えるようなコントロールだけを考えていたが、コントロールするスキーの中では逆にエッジをどの程度逃がしてやるかをコントロールする。”強いエッジングをしてしまうと、そこでコントロールが終わってしまう。”と説明する人が居て、それは”強いエッジングでもコントロールはするよね。”って意味で間違いじゃないの?と思うが、言いたいことは解る。楽なポジションのまま緩くエッジングしていると、足のクッションが固定されないから、雪面のギャップにたいして物凄く余裕が出来る。逆に強いエッジングをする時には脚のクッションはかなり固定されてしまうために雪面のギャップに体ごと跳ねられてしまう。
スピードコントロール
レースでなければゲート間で出来るだけ加速するように滑ることは無いだろう。また、全体のスピードが上がれば上がるほど、減速にも、ターンにも、加速にも大きな脚力を使う。大きな脚力を使っていると脚の柔軟性はどうしても低くなる。スピードコントロールに大きな脚力を使わなければ、自分の脚力や技量の範囲でスピードをコントロールしていられる。強いエッジングをして一気に加速し過ぎてしまって、自分の脚力や技量を超えてしまうような事も無い。
コントロールするスキー
緩く長くエッジングしているため、コントロールの幅が広がり、強くエッジングしないために大きな脚力も必要ない。大きな脚力を使っていないためにクッション性は高くなり、ギャップでポジションが崩されることも無い。そのため、後傾になって板が突っ走ってしまうような事にもならない。
因みにこのスクール、教える方も教わる方もかなりのハイスピードをコントロールしていて、若干ゲレンデ暴走族的に滑っている。でも、ちゃんと個人の技量の範囲にコントロールされているので、危なくない。

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2015年7月26日 (日)

もどかしさはイノベーションの原動力

もどかしさはイノベーションの原動力 特段ITの業界ではと言う話では無くて、効率の悪いシステムを使う時やいけていないソフトウエアを使う時、纏まらない話を聞いて居る時や自分より作業スピードが遅い人の作業するのを見ている時など、じれったいとか、もどかしいとか、そんな感情を抱くだろうと思います。

そんな時、”おせ~よ!”と怒るのではなく、何が悪くてそう感じるのかを考察してみると、そこにアイデアが生まれたりします。

そのアイデアを実現するための作業は、それこそがイノベーションと呼べるものだと思います。

例えばSonyがWalkmanを作ったとか、AppleがiPhoneを作ったとか、そんな大それたイノベーションでは無くても、世の中を便利にするイノベーションは沢山あります。

そして、それは、我々がもどかしさを感じることでアイデアとして生まれます。

このアイデア自身は、何処で仕入れたのか記憶が無いのですが、古い記憶に残っています。

でも最近思い出した理由は、onoT さんと言う方が@ITでCrazy for life(セイカツ イチバン、IT ニバン)と言うコラムを書いていてそれを読んだからです。

イラっとした時は、”何が駄目なんだろうか?”と考えるようにしています。

お蔭で、あんまりイライラしない。一瞬イラっとして”ふ~ん”と考え込む、そんな感じです。

そう言う時の僕を見ている人は、どう思うんだろうな?と心配になったりはしますけどね。(笑)

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2015年2月11日 (水)

Sports Walking

Sports Walking

こんな言葉は無いですよ。Race Walkingとかはあります。そんな本格的なSportsではなくて、歳を取ってからまともに歩けなくならないように、歩く筋肉を鍛えましょう、くらいの話です。歩けなくなると多臓器不全で死にますから。(笑)

RunningやJoggingは、案外膝や足首に負担が掛かる。

20代の時にSkiで膝を痛めてから、膝の負担をControlしやすい自転車Trainingを始めた。でも、Clipless Pedals(also clip-in or step-in, 日本だとビィンディングペダルと言った方が通じるかしら?)を使うようになって足裏の硬いShoesで乗るようになってから、足裏の筋肉の衰えを感じるようになっていた。
何故気が付いたかって?
Ski Bootsの踝の所が当たるようになって来たからです。足裏が薄くなると、踝の位置が下がるので、Bootsに踝の下側が当たるようになります。それで解りました。
どうも3年間のDesk Workは結構、足腰を弱らせるようですね?

中学生の時、バスケットボール部に所属していて、10km走ってから普通の練習が始まる生活をしていたせいか、足は偏平足とは程遠く、幅が狭くて甲が高い足でしたが、最近幅が広くて甲が低い足になってきてるのに気が付きました。新しいSki Bootsを買って解った事なのですけどね。

心肺機能を高めるためなら、体を上下に揺すらないといけないのでJoggingが良いのでしょうが、そうすると膝と足首が痛くなります。Walkingなら痛くなりませんが、ただのWalkingでは、筋肉が付かない。そこでWalkingとJoggingの間のような大股で足首のスナップを効かせて歩くことにしました。結果は良好です。膝も足首も痛くならないのにお尻の筋肉から下は全て筋肉痛になります。今の所15kmを3回やって、足裏の筋肉痛がちゃんと出ていますので、目的も達成しています。

近年、老人にSarcopeniaと言われる進行性および全身性の骨格筋量および骨格筋力の低下を起こす症候群(Wikipediaの説明を引用しています。)が問題になっています。寝たきり老人の温床とも言えるような症候群です。そこで、走るところまでは出来ない人達に新しいジャンルのスポーツでも、なんて考えて、Sports Walkingなんて言葉を作ってみました。

どうです?やってみませんか?

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2013年8月25日 (日)

思考は言語構造の影響を受ける

日本人の特技の一つに様々なものを受け入れて新しいものを生み出す能力がある。

古くは大化の改新の頃から、他国の文化を取り入れて独自のものへ発展させてきたらしい。

日本語は外来語を取り込みやすい。動詞であれ名詞であれ形容詞であれ、普通に日本語の中に混ぜて話しても違和感はない。(まあ、美しい日本語かどうかは微妙だか…)

人の記憶と言語は密接に結び付いていることは、敢えて論じる必要はあるまい。

同様に言葉をベースに理論を組み立てるなら、それはネイティヴな言語を用いる。(僕のイメージで理解する脳は、脳裏に浮かぶイメージに言葉を割り当てて行くように思考されるので、それ故にこの話には自信がない。)

思い切っり日本人の僕なら、間違い無く日本語を用いる。

記憶も思考も日本語で構成されるなら、それらは言語構造の影響を受けるのではないか?

日本人は文化において宗教的は制限を受けることがほとんど無い。
日本人が受け入れている宗教は、信者に無闇な強制を強いないから、日本人は言動も行動も概ね自由である。
残念ながら、社会通念と言った横並び意識と言う厄介な空気はあるが、強制力は僅かだ。

社会による制約も無く、思考に用いられる言語は柔軟なのであれば、グローバルな情報が可能になっても、日本において必ず独自の発展をさせてしまう。

日本語圏って言っても良いかも知れないけど、日本語を使う国は日本しかないから、ほぼ同義だけどね。
ガラパゴス化は、日本人にとって必然なのかも知れない。
ああ、でも日本に住んで日本語で思考するなら、ガラ携は素晴らしいと思うんだけどなあ…

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2013年6月 4日 (火)

シンダーコンクリートに桜島の火山灰を使わないか?

最近建物のコンクリートの厚さとか密度からX線の透過率を計算する羽目になっていて、シンダーコンクリートと言う言葉を頻繁に目にする。
軽量コンクリートの事だったよな?と高校生の時に仕入れた古い記憶から、新しい情報を調べて見た。

昔まだ日本が石炭産出国だった頃、大量の石炭の灰を出していた。
ビルを建てる時に躯体の上に配管してそれを埋める訳だが、密度の高いコンクリートで埋めてしまうと躯体に掛かる重量が途方もない。そのため軽量のコンクリートが必要だったのだけど、その時着目されたのがシンダー、つまり灰だったのだ。今風に言えばリサイクルなのだが、軽量かつ扱いやすいコンクリートだったようだ。

現在、石炭の灰を使う事は無いが、やはり軽量の混和剤を用いる。
一口にコンクリートと言っても混和剤によって機能が異なり役割も異なる。

ローマな巨大な構造物はコンクリート製だと聞く。実際に見たわけではないが、サイズと当時に得られた部材のミスマッチは、高校生の時には謎だった。
ナポリ近郊には、ヴェズーヴィオ火山がある大量の火山灰が存在する。どうもそれを混和剤に使っているらしい。火山灰は気泡だらけで軽く固い。だから混和剤に使うと硬度と重量の良いとこ取りになる。どうやって脱硫したのか不明だが鉄筋を使わなければ脱硫も必要ないのかも知れない。

桜島の火山灰は鹿児島に住む人達には迷惑極まりないだろうが、混和剤には有望な素材に思える。
誰かやらないかな?

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2011年5月25日 (水)

日本株式会社

ここ20年ほどの国政の混乱を見ていると、借金を重ねるほど政治家の人気が高まる傾向があるように思う。
資金的な裏づけが無いまま、お金を使えば、財布が空になり借金をしないと生活が出来ない。

政治家は、減税とバラ播きを約束すれば、人気が出るのだから挙ってうやりあう。借金が増えても減っても、実は政治家の懐具合には関係しない。人気があれば再選を果たし、懐は肥える。別に先々どうなろうと知ったこっちゃ無いと思えば、当然やるだろう。

サラ金にお金を返すために他のサラ金からお金を借りるような多重債務者は、基本的に破産手続きをすれば法的に債務から逃れられる。当然、一定の市民権が失われるが借金の取立て屋から一時的には逃れられて、借金が完済するまで数十年か不自由な生活を強いられる。不自由を味わうのは、債務者本人だから、破産せずに済むように頑張るのですよね?

株式会社の社長で、債務を繰り返し、赤字決済を続けたら間違いなく首です。決済不履行になれば会社は倒産し、社員は全員解雇です。社長も社員も不自由を受ける。社長は、自らと社員の生活を守る義務があります。だから、みんな黒字決済を目指し、頑張るのですよね?

国債を償還するために国債を発行する状態、いわゆる赤字国債と呼ばれるような国債を発行するのは政治家ですが、
デフォルトが起こっても不自由を味わうのは国民で政治家ではありません。沢山の財産を構築済みの政治家にとって、デフォルトなど怖くないのかも知れません。自らの腹が痛まねば、国民がどうなろうと知ったこっちゃ無い。

どうせ殆どの国債は日本の銀行が買っています。その元手は、国民の貯蓄ですから、枝野さんのように法律を無視して銀行に債権放棄を言えば良いだけです。その場合、銀行は貯金の払い戻しを停止しなければ潰れます。債権放棄を言い出すような政府が貯金保護を出来るはずも無く、国民は銀行貯金を全て失うような羽目になるでしょう?

日本はすでに税収を遥かに超えて借金をしている訳ですから、借金を返せる国づくりをしなければならない。経済発展の見込めない日本では、税収の増加は見込めません。普通の家庭では、収入が増えなければ無駄遣いを止めるのですが、政治家は無駄遣いをすればするほど人気が出るのです。家計を省みずに無駄遣いを続けたら、破産しか待っていないですよね?

通常、社長を含む経営陣の功績の良し悪しは、決済の良し悪しです。決済が悪ければ首になる。日本株式会社の経営陣たる内閣は、決済が悪ければ首で、内閣総辞職と言うことになるでしょう。議会は、あんまり役に立っている印象がありませんが、経営陣を監査するお目付け役、彼らが役目を全うしているかどうかの監査は国民が選挙で行う。

現在20歳以上の国民全てに参政権が与えられていますが、監査役の国民には税金を払っていない人を加えないほうが良い。株主以外は会社の決算に興味が無いように、税金を出資していない人には、会社の利益には関係ない意図が働きがちです。ですから、株主総会の如く、決算報告に対して経営陣の退陣を迫れる株主=税金を納めている国民の創設も必要でしょう?
現在の日本は、税金を納めていなくても国民としての権利は保護されますが、通常の会社では対価を支払わなければサービスは得られません。明治時代の初期の議会制民主主義の如く、税金を納めていない人に参政権は認めないほうが良い。国民としての権利が多少なりとも制限を受けなければ、税金を払うモチベーションは生まれないでしょう。
憲法違反だろうって?大丈夫じゃないですかね、納税義務違反を絡めれば何とか誤魔化せます。誤魔化すの得意でしょうから、きっと行けます。

どうやって借金を返すのか?普通の家庭なら無駄遣いを止めます。国の無駄遣いは、政治家の大好きな減税とバラ播きです。天下り先の補助金とか、地方自治に口を出す見返りの補助金とかも無駄遣いのうちですかね?まあ、これは政治家の無駄遣いではなく、官僚の無駄遣いでしょうけど・・・

内閣の経営成績は、借金を幾ら減らしたかで評価します。複数年に渡って借金を減らせなかったら、内閣総辞職です。また、その減らし方には国としてのコンプライアンスが必要でしょうから、そこいら辺の議論は議会の役目です。議会なのに何も発言しないような唯のお飾り議員のような人は、国民が弾劾します。選挙区は全国区だけ、地方の事は地方でやって貰う。だから、小選挙区は必要ありません。

これまでの地方の代表のような小選挙区の議員は、県知事を争ってもらって、そこで力を発揮していただく。地方で面白いお金儲けの方法を思いついたら、内閣に出資要請をして、国が出資して利益を回収します。県は比重を高めた地方税で、例えば宮崎県株式会社のような活動を行えば良い。市町村はその支社のような取り組みをすれば良い。

これまで国と地方自治の関係は主従関係でした。国が一括して税金を集め地方にばら撒く。この関係は変えたほうが良い。地方が税金を集め事業を行い、収入に応じて国に税金を納める。県単位では出来ないような大きな事業は、県単位で企画して国に出資を申し出て、出資に対して見合った報酬を国が県から受け取る。逆に国が行わなければならないような事業は、国が企画して県の参画を募り、事業収入と出資額に応じて報酬を分ける。

こうして行けば、県単位で無駄遣いを減らせます。事業に成功した県は潤いますし、失敗した県は収入に見合った緊縮財政を迫られるでしょう。多少県単位で競争を生まないと、公平にならないですよね?
不公平だろうって?子供の公平は、努力してもしなくても同じ量を貰える事ですが、大人の公平は努力に応じた量が貰える事です。量が沢山欲しいのであれば、努力するのが大人の公平です。社会通念ですよね?

でも、これだけでは足りません。日本の繁栄にはどうしても外貨が必要です。外貨がないと食費も払えないような国なのですから、国を挙げてお金儲けをしなければならない。よく言う、官民一体になって、金儲けが必要です。官は民の金儲けを支援し、自らも金儲けをして借金返済に充てるべきです。民業圧迫とかより官民協力で金儲けに走るべきです。どうやっても税金だけで足りる額の借金ではないですよね?

内需拡大が税収を上げる一番の方法だとか騒がれていますが、国の借金を返せる当が無い⇒将来に備えて自分で蓄えるしかない状態では、内需拡大なんてありえないですよね?政治家が大好きな言葉で”抜本的な改革”なんてのがありますが、その抜本的な改革は国の借金を返して財政の健全化をすることが内需拡大への一番の改革方法です。

な~んて訳で、日本株式会社なんて言い出しているのですが、これをしたからと言って、黒字化できる経営陣になれる政治家が居るとは限らないんですがねえ・・・

それに・・・
ちょっと書き直したくらいでは、全然過激さが抜けないですねえ。
長年、”緩く民意を形成するような政治形態が望ましい”と思ってきましたが、労働人口の減少が進む中で、労働しなくても生活できる人の意見が大きな民意となってしまっては、社会はきっとジリ貧です。働く人の民意が反映されない政治では、日本は経済成長出来ませんよね?家庭の中で働き手の意見が尊重されるように、国政においても働き手の意見が尊重されるほうが、理解しやすく働き手のモチベーションも上がる筈です。結果としての経済成長は、労働しない人達の生活向上にも繋がる筈です。

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2010年6月 8日 (火)

頭の形を綺麗に育てるための枕

先日の「頭の形を綺麗に育てる方法」に引き続いて、その枕を考察して見たいと思います。

首の据わっていない乳児の頭を比較的均一な圧力で支えることで、軟らかい頭蓋骨を自重で丸く保つことが出来ると思われます。そのため、材質は乳児の頭の比重より僅かに比重の高いジェル状の物が適しているでしょう。ジェル状の物質を包む材質は、塩化ビニール系の軟らかめのビニールが適しているでしょうか。
枕の形状は、縦30cm横20cm高さ10cm程で、頭側と背側は固め、足側は柔らかめ、左右は頭が乗った時にジェルが避けるスペースを与えるために膨らみやすくするために軟らかくします。
ビニールが破損したときのことを考慮して、ジェルは比較的固体に近い粘度を持つものが適していると思われます。
沈み込む深さは、頭蓋骨の1/3位で十分でしょうか。角度にして120°位埋まっていれば、自重は分散されるはずです。
布団は、枕の高さとほぼ同じ10cmくらいの物を用意します。これにより、頭の重さが首側に乗らず、枕に対して自重を正確に乗せることが出来ると思われます。

ただし、寝返りが打てるようになると窒息の危険がありますから、沈み込みの深さが浅くなるように薄い枕に切り替えます。大体その頃には、縫合も進んで頭蓋骨自体も強度を増してくるので、自重で極端な変形をすることも無いでしょう。また、既に十分頭の丸さが得られているならば、布団だけで枕自体が要らなくなると思われます。頭の形は、丸ければどの角度であっても座りが良くなりますから、適度に向きを変えられるように布団の沈み込みで十分になります。

布団の厚さで乳児の成長をカバー出来るかも知れませんが、基本的には高さ10cmのものと5cmのものを二つセットで使用します。

誰か作って商売をしたいと思われる方が居ましたら、cbr929_euro@yahoo.co.jp フロの飼い主宛てにメールを下さい。

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2010年6月 7日 (月)

頭の形を綺麗に育てる方法

人の頭の形は人それぞれ。
日本人らしく丸い頭の人、ゲルマン民族のように前後に長い頭の人、特徴を上げてゆけば切りもない。ただ、そう言った民族差のようなものをここで論ずる気はないですよ。

ゲノムは、自己形成法が書いてあるだけ、と言われます。それは、頭の形一つを観察しても確からしいよね。

子供の頭は母親の産道を抜け易いようにだろうか?頭蓋骨も縫合してなくて柔らかい。自重に丸さを保っていれるほど硬くは無い様子。だから、縫合が進み硬くなるまでの間は、終始向きを変えて丸さを保つようにしないと、自己形成してゆく段階で形が歪んで行くように見えます。

長男や長女は大体頭の形が綺麗に丸い、いや、左右対称と言った方が良いかな。それに比べて、次男や次女とかだと、どちらか一方が絶壁の人が多い。手のかかる長男、長女の相手をしている母親にほったらかされても、いい子に寝てた子が多いんじゃないですかね?始終頭の向きを変えて貰えないから、どちらか一方に傾いて固まってしまうのかも知れません。
三男や三女は、特に一番上が女だと結構左右対称です。女の子の方が赤ちゃんにちょっかいを出すからですかね?

思い当たる人、居ません?

だから、綺麗な頭に育てたいのなら、まだ頭が軟らかいうちに始終頭の向きを変えてあげることです。

ああ、もう一つ重要なことがありました。
成長期に虫歯にしないことです。特に上顎の歯を虫歯にして、歯性上顎洞炎になると左右の上顎洞のサイズがずれて顔が歪んでしまいます。欧米では、「歯の美しさはインテリジェンスの証明」なんて事も言われますので、そう言った意味でも虫歯にしないほうがいいでしょ?

歯の白さを保つのは、食生活が絡みそうだし、あまりに専門外なので・・・

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2010年4月28日 (水)

総理大臣の国民投票制について

何時も政治が混乱すると、政党が乱立する。
自由民主党は、元々二つの政党がくっ付いて出来たものだそうだが、内部には以前から政策の食い違う党員を沢山抱いていた。政権党と言う求心力が無くなって、さてどうなるか?と思っていたら、やっぱり分裂し始めた。

民主党の支持率が急降下しているが、民主党は元々小沢党でしょ?あれだけ沢山の議員が居ても、強力なリーダーシップを取れる人で政治資金も沢山持っている人は他に居ないよね。だから、首相と言えど彼を外すこと出来ない。でも、彼は国民に人気が無い。支持団体の怪しげな問題で尚更である。

民主党の若手議員は、特に前回民主党の追い風で、ある意味民主党を名乗っていれば誰でも当選できたような選挙で当選した議員にとっては、再選を目指す上で風向きの悪い人をトップ下に据えて置かれては都合が悪いのだろう?彼らがどういう理念を持っているかは知らないけれども、小沢党だと解かっていて民主党から立候補したんじゃないの?

大体、政治家は立候補する時点である種の政治的理念を持って立候補するのだろう?200人位の政党に属する議員が全く同じ理念で在る筈も無いよね。何かしらの利害関係を持ってくっ付いているだけでしょ?
「党利、党則に基づいて」なんて言ってるのは、民主主義が数の多さで物事を決めてゆく制度なんだから、党の執行部の考えに従って貰わないと、当選に力を貸した権利をまっとう出来ない。力だけ借りて理念に合わないと出てゆく議員の正当性と、力の貸し倒れになった党の正当性は、どちらが正しいとも言いがたいけれども、少なくとも比例で当選した議員が党を離れるのは、政党への不当性と党に投票した国民への不当性で二重に不当ですよね?

総理大臣は、国民が選んだ議員が選挙で選ぶものでした。だから、大体多数党から総理大臣が選ばれる。傍目には、党が先にありて、総理大臣はお飾りのような印象が拭えない。党の実力者がそのまま総理大臣になっていたのは、大平さんくらいまでだったろうか?誰とは言わないけれども人気の無い実力者=政治資金を沢山持っている人は、後ろに隠れていて、総理大臣にあれこれ茶々を入れる。リーダーシップなど取れよう筈も無い。それは、今の民主党に限ったことではなくて、自民党時代からずっとそうだったのだ。

政党を無くせとは言わないけれども(実は必要ないんじゃない?と思ってる。)、総理大臣は議員に選ばせずに国民投票で選ばせて見てはどうだろうか?

政策集団である筈の内閣は、総理大臣に好きに選ばせる。当然、議員である必要も無い。議会における議員は、それぞれの政治理念に基づいて、議題ごとに集合離散すれば良い。

政党に数の理論の為にお金を出して人を集めると言う必要性が無ければ、議員が理念を曲げるほどの義理もなくなるだろう?選挙の時に国民に訴えた公約をまっとう出来る公算も高くなる。議員立法をして賛成して貰えるほど説得力のある理屈を用意できれば、それは実現できる。幾ら理念に燃えていても、現在のように政党に訴えても、党利党則に潰されて全く顔が見えないような政治家になることも無い。

ただし、上手く生かせるには幾つか条件が必要だろう。決議の際に欠席を許さない、賛成票を投じるにも不賛成票を投じるにも必ず理由を提示しなければならない、無効票を出すのは禁止する、再選を目指すなら任期中に何をしたのか立候補時に提示しなければならない、これぐらいで十分だろうか?

利益共同体が幾ら議員を送り出したとしても、政党に政治資金を出したとしても、大勢の議員の賛同を得なければ何も決まらない。少なくとも政党のリーダーにお金を渡せば、党員=議会の過半数を抑えられてしまうようなことにはならないだろう?

ちょっとした危惧は、本当に何も決まらなくなってしまうことだろうか?
八方塞に答えを出して行くのが政治なのだから、過半数の賛同を得る政策やら、立法を行うのは至難の技である。全てが否決、廃案になってしまったら政治がストップしてしまう。総理大臣が何か政策を打ち出そうにも、議会が一向に批准してくれないことには先に進めないのだから。

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2009年2月21日 (土)

感覚量の鋭敏さと大雑把さ

飽くまで仮説であって実証はしていません。実証できれば、そうだな、人間工学とかバイオメディカルエンジニアとか神経生理関係とか学会に投稿するのかと思いますが、僕には実証するためのインフラを持ち合わせませんので仮説を立てるところまでです。

工学系の学会では、暫らく前から感覚量を物理量に換える研究が行われています。医学でも主訴と症状のミスマッチは当然のように存在します。特に痛みや末梢神経障害、視力障害や聴力障害など感覚器の症状はその障害の程度を症状から知ることは難しいのです。器質的な障害があるのであれば、ある程度ものが言えるでしょうが、所見は無いけど症状だけ有る場合は特に難しいだろうと言えます。

また、遠隔操作のような操作者へのフィードバックが直接的に得られないシステムでは正確な操作が難しいのですが、遠隔操作されているデバイスが反作用的にデバイスに返される力を遠隔操作者に正しく伝えられれば、多少慣れは必要でしょうが正確な操作が可能になると思われます。

5感を司る脳は、大変敏感であると同時に大変大雑把です。

例えば、旋盤の熟練工は0.1μmくらいを指先の感覚で削りますが、それは0.1μmくらいの差を指先が感じることが出来るからなのですが、ある既知の厚さの物を持って来て”この厚さは幾つ?”と聞いても正確には答えられません。

どうも感覚量を扱うビット数はあまり多くないところで一定であり、常にダイナミックレンジを切り替えながら利用しているように思えます。
小さい量を扱うなら、少ないビットをそこに割り当てると小さな差を理解できますが、大きい量を扱おうとすると大きな差しか割り当てられないので大きな量を扱うと大雑把な感覚になります。極端な話をすれば大きいか小さいかの比較しか出来ないような部分も見受けられます。

感覚量は飽くまで相対的な差を感じるものであり、絶対量としては持ち合わせていないのでないだろうか?と言う疑問が湧きます。

同じ物を見ているのかの確証はありませんが、絶対音感を持ち、その周波数、と言うよりは例えばピアノのどのオクターブの何の音、と言い当てられる人が多数居ますが、彼らはどうやってその特定の周波数を感じるのでしょうか?
先ほどの感覚量の話からすると、絶対音階を持つ人の説明には大変馴染みが悪い。何か他の方法で音を感じているのだろうか?とも思えます。

顔認識ニューロンなるものの存在を論ずる人たちが居ます。ここで彼らの理論を詳しく書くようなことはしませんが、彼らの説明は、人が自身でも他人でも有名人でも構いませんが人の顔を認識する方法を理解するには大変馴染み良い理論を展開してますし、特定の顔を見たときに発火する特定のニューロンの存在も確からしい実験結果が得られています。
これらは特徴量の抽出と適応において脳とその記憶が密接に絡み、単純な視覚の問題ではない事を示唆しているとも考えられます。

絶対音感を持つ人は、音の感知方法が異なるのではないか?音の高低で覚えるのではなく、例えば人の顔を覚えるようにその周波数の音を人の顔を覚えるように覚えているのではないだろうか?ある特定の周波数の音を聴くと発火を起こす単数、もしくは少数のニューロンがきっと存在するのだろう?その場合、見てくれが多少違っても個人の顔を特定できるように、多少楽器が変わってもそれは認識できるのではないだろうか?

感覚量の一部は、記憶と密接に係ってその理解を難しくしているのではないか?

と、ここまで一気に書いてみて、理論の飛躍と強引さが感じられるので一先ず筆を置いて、その内またちゃんと考えてみます。

こんな中途半端な記事を載せて、書くことが無いと言うのも困ったもんですね^^;

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