攻殻機動隊

2011年9月26日 (月)

この人の映画論評を読んでみては如何だろうか?

「柊梅庵主謹白映画漫策&音楽作品
Favorite movies & my music」を読んでみては如何だろうか?

どうも「mutamac 」さんと言う方が書いているようだが、何年、どの位の時間を掛ければこれだけの内容の記事をこれだけの量書けるのか驚きですが、
僕のブログに”Stand Alone Complex 意味”で検索して、見にこられる方々は是非mutamacさんの論評を読んでみることをお勧めしますよ♪

「きらびやかな舞台設定に幻惑される微妙な恋物語
http://nmuta.fri.macserver.jp/movies9.html

攻殻機動隊について書かれています。僕の雑な文章を読むより、余程、色んな事が理解できるかと思います。

この方、映画論評だけでなく、色々と面白いことを沢山、それこそ沢山書いているので、攻殻機動隊の中で語られる禅問答のような台詞のやり取りに興味を持たれる様な人たちには面白い文章が並んでいると思うのですが・・・

人の褌で土俵に上がるような記事なので、まあ、この位で。

mutamac 様へ 勝手にリンクを張らして貰いました。不愉快でしたら、コメントにでも入れてくださいまし。謹んで削除いたしますm(_ _)m

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2011年7月22日 (金)

現実を生きる

現実を生きる

現実は、常に反現実を参照する。反現実とは、理想、夢、虚構である。(反現実の解説は、見田宗介の見解を借りている。)
大澤真幸が不可能性の時代と言う本の中で述べています。(本の中では、不可能性の時代を説明する一つのキーワードであって、「現実の中の様々な「意味」は、その反現実との関係で与えられる。」と書かれています。ですから、彼がその本の中で述べている事は、僕がこの後に書いているような事ではありません。僕は、唯キーワードを借りただけです。)
こう言う小難しい言い方は、簡単な言葉に置き換えてやるとイメージが湧きやすいですよね。

何を持って現実に不満を持つのでしょうか?不満には何かしら対比するものが必要です。それって大概自分の夢であったり、理想であったりすると思います。自分の思い描く夢だとか理想と照らし合わせて、現実がそれとは似つかわしくないと思うことが、現実に対する不満の根源ですよね?現実を生きることは、特に努力は要らないのかも知れませんが、何かしらを追い求めるのなら、その何かしらが夢であったり理想だったりするのかと思います。自分の思い描く理想なり夢が、現実を生きる方向性を与える物です。そうですね、例えば羅針盤のようなものです。こんな風に例えるなら解りやすいでしょうか?(虚構の説明まで入れると纏まりそうに無いので止めておきます。)

1st.GIGのタチコマの家出、映画監督の夢と言うエピソードの中で、映画監督との会話の中で少佐が「どんな娯楽も基本的に一過性のものだし、また、そうあるべきだ。始まりも終わりも無く、唯観客を魅了したまま手放そうとしない映画なんて、それがどんなに素晴らしく思えたとしても害にしかならない。夢は現実の中で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは、死んだも同然だ。(監督:リアリストだな。)現実逃避をロマンチストと呼ぶならな。」と言った言葉を覚えていますかね?
リアリストとの対比として語られていますが、娯楽の世界から出てこない、例えば引き篭もりや一部のオタクと呼ばれるような人達の現実的には無意味な知識を同好の志達のみの中で共有するような行動は、ある意味現実逃避であるとも言えます。それが、夢なり理想なりを追う手段の一つであるならば構わないのですが、現実と乖離してしまっては有害なだけです。

現実の中で闘う行為、努力なんて言葉でも良いかも知れませんが、それは、夢や理想に向かうプロセスと言っても良いかもしれません。それが現実を生きることそのものなんだろうと思います。

僕は、他人に対して批判的な物言いはするが、決して自分の言葉で語らない人が嫌いです。まあ、自分に自信が無いのかも知れませんが、何故ならそれは、決して何も生み出さないからです。批判は簡単に出来るけども、建設的な意見やアイデアを出すのは簡単ではありません。自分の言葉で語るの意味は、自分の考えやアイデアを出すことです。
以前のコメントのやり取りの中で、ブログを書く人≒満たされない人+表現する人と言った流れにしてしまいましたが、良いんじゃないでしょうか?満たされないことで努力を怠らないのであれば、それは紛れも無く現実を闘っているということですし、ブログの中で自分の考え方やアイデアを書くこと自体が自分の言葉で表現することですから。つまり、自分の言葉で語ること自体が、現実を生きることだと考えられます。

「人生においては自分自身が主役」なんて言い方を良く聞きます。通常、物語は、主役が夢に向かって進んでいくとか、冒険するとか、悩み葛藤するとか、ワクワクしたり、感動したり、共感したりするようなストーリーだから、見ていて楽しいのですよね?主役が脇役の夢に憧れるような姿を描くストーリーは、きっと見ていても楽しく無いと思うのですが、どうでしょうかね?

人生は何時終ってしまうのか定かではありませんので、必ずハッピーエンドになるとか、夢を叶えるとか、理想を具現化してしまうとか、そう言ったところまで努力し続けられるとは限りませんが、先に行って見ないと解らない。しかも人生は一回しか与えられていませんし、間違えたところまで戻ることも出来ません。また、途中から先を見通せるわけでもありません。
他人の夢に自分を投影するのも、まあ、その人の人生だと言えばそうなのですが、それって楽しく無さそうですよね?
僕は、夢を描いて、現実とのギャップをどうやって解消してゆくかをワクワクしながら考えてゆくのが楽しいですかね。そして、その中で何かを生み出せたら、最高にハッピーだな、なんて思うのですが・・・

ああ、そう言えば、理想とも夢とも言い難いですが、僕の現実を生きるプロセスの原動力は、知識欲です。そしてこれまで生きてきた中で、何かを生み出せたのかどうかは、結構色んな事をしてきましたが、流石にこれはあまり自信がありません。(僕のリアルネームで検索を掛けると結構色々なものが出てきます。)

書き終えて読み返してみると、何だか、何を言いたいのか解りませんね?
書き始めたときは、大きな夢を持たない自分の行動プロセスを、夢と現実を対比させることで定義付けしたい、と思って書き始めた筈です。書くことで思考を纏める、何時もの僕の行動パターンです。大体何時も脱線しまくりますがね。(笑)まあ、大方、現実逃避を批判しているようです。

僕はかなりのリアリストらしく、TVゲームが嫌いです。シミュレーションのような現実に試すのが難しい事を仮想で試すようなものの有用性は高いですので、その為のコンピュータテクノロジーを進化させるためのTVゲームの価値は感じますが、特にストーリーを追って行くようなゲームをやること自体が無意味であるとか思っちゃったりします。だって、そのストーリーは誰かが考えたものあって、ゲームの中でどんな選択をしたとしても、開発者の想定した範囲を超えてストーリーを展開できる訳ではないからですよ。自分でストーリーを組み立てるから楽しいのですよ。

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2011年4月 9日 (土)

"Stand Alone Complex 意味"を検索してみました

この記事は、探索の結果、素晴らしいと賞賛していた記事が削除されてしまったため、”もしかしたら、リンクが迷惑だったのかも知れない”と思われますので、削除しました。

ごめんなさいm(_ _)m

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2011年4月 6日 (水)

Stand Alone Complexの意味を深読みする

リチャード ドーキンスがその著書であるThe selfish gene(生物=生存機械論)の中で提唱するミーム(meme)と言う概念から、Stand Alone Complexの意味を深読みしてみます。

memeとは、模倣の単位と言う概念を伝える名詞として、模倣に相当するギリシャ語の語源とするmimemeと言う単語をドーキンスがgene(遺伝子)に対比させた造語だそうです。ミームが遺伝子プールと同じように、ミームプール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へ渡り歩く、としています。
この本の中で、自然淘汰を動作させる基本理論は、自己複製を行う実体の生存率の差に基づいて進化する、として論じられており、生物のそれはgene(DNA)であり、生物以外のものをmeme(ミーム)と説いています。まあ、全てをmeme(ミーム)として、生物で成功を収めた唯一のミームがDNAとしても良いと思われますが・・・

Solid State Societyのラストに、”我々は消滅する媒介者となって、次のSocietyに介入して行こう”なんて言い方で深層的無意識が人間の脳を媒体にして一人歩きをするような表現が用いられていますが、一つの理論でも、一つの思考でも、信仰のような理念でも、ファッションスタイルでも、デザインでも、文化でも、習慣でも、何であれ媒体上を伝播し、自らのコピーを産み出すような自己複製子をミームと呼びます。
一番成功しているミームは、神や仏かも知れません。説教や法典に拠って人々の脳にそのコピーが作られ、人から人へ自らのコピーを増やしていくものなら何でもミームと呼べます。(当然人でなくても良いのです。模倣が出来る生物は沢山居ますので・・・)神や仏ほど長生きするミームでなくとも、例えばホットパンツにタイツ+ロングブーツと言った流行のファッションスタイルもそれが多くの人に魅力的に映るのであれば、コピーされてゆきます。ですから、これも立派なミームと呼べます。

ミームは、gene(DNA)のように親子や兄弟のような近親関係と言った媒介者間の関係を持ちません。伝播する媒体は、基本的に脳ですが、伝播方法は何でも良いのです。街中で見るだけでも、ネットで見るとか聞くとか、TVで見るとかラジオを聞くとか、媒介者間に特別な相互関係を持つ必要がありません。これはつまり、媒介者がStand Aloneな関係のまま、それぞれの脳の中におよそ同一なコピーを持つ状態になります。(およそ同一なコピーの意味は、必ずしも正確にコピーされるかは解からないからです。)
ミームの自然淘汰の動作原理は、魅力的かどうかだけです。死後の因果応報の世界は十分魅力的ですし、ホーキンス博士の宇宙の起源論なども魅力的なミームなので、世界中で誰でも知っている程のコピー数を稼いでいます。前述のファッションも僕が電車に乗る30分程度の時間の中でもそっちゅう見かける程のコピー数を稼ぎ出しています。

およそ相互関係の無い多数の媒体者達の脳に同一なコピーを持つ状態は、一つのミームから見れば一つのミームプール(ここでは敢えて複合体と呼びたい)と見て取れます。Stand Aloneな関係にある媒体者達をComplexとせしめる因子がミームとも考える事も出来ます。こう考えてゆくと、Stand Alone Complexと言う社会現象は、ミームが繁殖してゆく繁殖現象そのものとも言えます。

我々がgene(DNA)を媒介する生存機械に過ぎず、寿命を持ち消滅してゆくように、我々の脳もまたmeme(ミーム)を媒介し、その魅力を感じなくなることで媒体者としての生存機械を消滅させます。そして、また次の媒体者に介入してゆく、もしくは別のミームを伝播する媒介者になって社会に介入してゆくことになると思われます。

ミームは、媒介者の意図があっても無くても伝播し媒体者に介入してゆきます。
Stand Alone Complexの意味は?と言う記事やStand Alone Complexの再考と言う記事でキーワードにした
”全ての情報は、共有し並列化した段階で単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは、動機ある他者の意思に内包化される。”
と言うオリジナルの笑い男が言った、彼の経験に基づく推論を上記の理屈で捕らえるなら、
”動機のあるなしに係わらずミームを伝播させることで、Stand Alone Complexと言う社会現象を生み出し、社会に介入する媒介者になる”
と言う事になる、のだろうと思われます。

士郎正宗がStand Alone Complexと言う言葉を副題として攻殻機動隊と言うStoryを生み出し、その魅力にその意味を知りたくなった媒体者が今この記事を読んでいる貴方であり、媒体者であり媒介者たる僕がこんな記事を書いて貴方の脳に介入していると言えます。

まあ、士郎正宗さんや神山健治さん、管正太郎さん、櫻井圭記さん達がこう考えて物語を紡いだのかどうかは僕には解かりませんが・・・

補足:四郎正宗さん達が描く電脳化の時代に、一方はウイルスを使って扇動者を作り上げ民衆を故意に動かそうとし、もう一方は話をするだけの旧来の方法であり1人のカリスマに民衆が自らの意志で従おうとする。でもどちらも自らを律する規律の中に存在する自我ではないから低いところに流れてしまい、双方が目指すところに行き着くわけではない。
大変面白い構成と言うか、絶望と期待が入り混じっていると言うか。
僕は、きっと共感するからこんな記事を書くんだね?

もう一つ補足:文章の中で、「特別な関係を持たない人同志」を「Stand Aloneな関係のまま」としましたが、社会に生きる以上完全にStand Aloneな状態にはならないですよね。Network Computerとの対比でStand Alone Computerと言うものがありますが、脳を一つのComputerと考えれば、別にEthernetで繋がってなくとも言語を含めたMulti Mediaで社会と言うNetworkに繋がっていると言えます。だから、厳密にはこの解説は正しくありません。

社会を見回すとIntranetな状態のグループを見かけますし、外部からの情報を拒絶しているように見える個人も見つける事が出来ます。社会に生きてなお孤立した精神状態にあると言えるでしょうか?自ら外部へのInterfaceを閉じてしまっているように思えます。まるで外部への興味をなくしてしまったかのようです。大概こう言う人達って犯罪行為に走ることで我々はその存在を知ることが出来るのですが、何故自閉行為に走るのか僕には残念ながら理解できていません。

Stand Aloneな人とは、電脳化の時代では、Ethernet(そういう時代にこんな通信プロトコルが使われているかは解りませんが・・・)で繋がって無い人を単純に指しても良いかもしれませんが、現代では外部への関心を閉じてしまった人、一つ踏み込んで言えば、外部への好奇心を失ってしまった人を指すのかと思います。それは意味を広げれば、凡庸な生活を続け、人の話に耳を傾けない人をも指すかも知れません。

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2010年11月27日 (土)

Solid State Societyで描かれる子供の虐待死は既に現実

攻殻機動隊のSolid State Societyを見ただろうか?
ネタばらしになりそうなので、見た人にしか解からない程度の前振りにしようかと思いますが、物語の中で語られる12歳未満の虐待死が5万に超える、と言う事態は、そろそろ身近なものになりつつあります。

厚生労働省の報道発表資料の中で、児童虐待相談対応件数等及び児童虐待等要保護事例の検証結果(第6次報告概要)http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000g6nl.html
を見ると、死亡例64例に対して、出頭要求例が21例と、これらの数字を単純に比較するわけには行かないけれども、児童相談所が把握できていない事例で死亡者が沢山出ているような印象を受ける。

1 児童相談所における児童虐待相談対応件数
  平成21年度中に、全国201か所(注)の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は44,210件(速報値)で、これまでで最多の件数。前年度の42,664件から1,546件の増加となっている。
(注)児童相談所は平成22年5月6日現在で205か所となった。
2 平成21年度に実施された出頭要求など 
  平成20年4月より、長期間、子どもの姿が確認できない家庭には、裁判所の許可に基づく臨検・捜索ができるようになるなど、新たな制度が導入された。
  平成21年度におけるこれらの実施状況は次の通り。
 (1)出頭要求  21ケース(対象児童25人) 【28ケース(48人)】
 (2)再出頭要求  2ケース(対象児童 2人) 【 3ケース(5人)】
 (3)臨検・捜索  1ケース(対象児童 1人) 【 2ケース(4人)】
                               【 】は20年度
3 子ども虐待による死亡事例等の検証結果 
  児童虐待防止法に基づき、虐待による死亡事例など重大な事例の検証を「社会保障審議会児童部会児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会」で実施しており、このたび第6次報告を公表。
  対象は平成20年4月1日から平成21年3月31日までの事例。
 (1)対象期間に発生または明らかになった死亡事例は心中以外が64例、67人
 (2)死亡した子ども(心中以外)の年齢別では、0歳児が39人(59.1%)と最も多く、うち0か月児が26人(0か月児の66.7%)と集中している。

児童虐待相談対応件数の推移は18年までのものしかないけれど、近年増加率が高くなってきている。
これらの情報は、厚生労働省http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/07/h0710-3.htmlのページから引用しています。
児童相談所の数は少ないこととも言われるし、死亡例のように必ず警察沙汰になるものでも児童相談所が把握してないような報道を耳にすると、統計に現れない児童虐待は、統計数に対してどの位の倍率で存在するのか想像も付かない。

平成18年度に全国の児童相談所で対応した児童虐待相談対応件数37,343件(速報値)

参考】 児童虐待相談対応件数の推移
年 度 平成12年度 平成13年度 平成14年度 平成15年度 平成16年度 平成17年度
件 数 17,725 23,274 23,738 26,569 33,408 34,472

児童相談所の数もそうなのだが、社会が子供を守ろうと言う意識がそもそも足りないんじゃなかろうか?
我々は、トラブルを避けるために他人の家の事には大概口に出さない。近所で何か大声で怒鳴りあうような声が聞こえても、警察が呼ばれるような事も無い。都内などでは、こういった場合”うるさい、近所迷惑”と言った理由で警察が呼ばれることはあるけれども・・・
騒ぎが大きくなるとけが人が出るんじゃないかとか、事件に巻き込まれている人がいたら大変だとかではなく、自分が迷惑だというだけなのだ。
特急列車の中の強姦騒ぎを、他の乗客が黙って見ていた、なんて世の中だ、自分に降りかからなければどうでもいい、なんて人間が大多数でも不思議は無いのかもしれない。
現在住んでいる所には、まだ町内会なんてものが存在していて、流石に隣に誰が住んでいるかくらいは把握している。残念ながら昼間家に居ない僕には、何歳でどんな仕事をしているとかの情報は持ち合わせていないけれども、近所で出会えば認識できて挨拶するくらいのことはする。何かあれば相談にものるし、相談もする。でも、隣のアパートに誰が住んでいるのかは解からない。大声で子供を叱る母親の声は聞こえるけれども、子供を殴るような音とかが聞こえなければ、児童相談所に電話をするような事はない。普段親子連れで出かけるところとかを目にするから、まあ、大丈夫なんだろう?位に思っているのもある。
そもそも親の権利が強すぎて、回りは口を出せないのだ、それは児童相談所でも同じことが言える。児童相談所が把握していても虐待を止められないのは、こう言った事情による。
アメリカとかでは、親の権利が制限されている。12歳未満の子供を家に一人にしては行けない法律や、地域の通報、警察の介入、保険師のような職種の強制力の強さなど、日本とは大違いだ。
親だからと言って何をしても良い筈が無いのは日本でも同じだけれども、”自分の子供の事に他人が口を出すな!”と言う親が沢山いる日本では、相当強力な法的サポートが無いと、誰も通報しないし、注意もしない。児童相談員も殆ど何の権限も無い。
こう言ったニュースを聞くと、”児童相談所は何をしてる!”、”行政は親の権利を制限しろ!”とかいう人が出てくるが、その人本人も行政が自分に介入してくるのを嫌うだろう?何か全て他人事なんだ。
もともと人は、個人では子供を育てられない、と言われます。これまで解ってきてる人間の生活は、太古の昔から集団生活です。子供は多くの母親に見守られながら育つ。その中で社会性を身に付ける。核家族化され、特に12歳未満の子供の教育に大して役に立ちそうも無い男も子育てに深く掛かり始めている。母親の一部には子育てに向かない人が居るようだ。父親の場合は、もうちょっと比率が高いか、自分の子供と言う認識が低いのか、母親よりも更に子育てに向いていない人間が多いように思える。それは太古の昔から変わらないのではなかろうか?集団がそれをサポートしてきたのだろう?と考えられるが、現在のそれは、核家族化、他人への無関心が阻んでいる。法も未整備で社会として子供を守る体制にも無い。
核家族化の推移と児童虐待の数字が必ずしも噛み合わないのは、どういう意味だろうか?
一つの推測は、児童虐待を起こしている親達の世代が、核家族の環境で育った世代だと言うことだろうか?彼らは、家族の中で子供が育つ経験が無いのだ。人は物事を初めから上手く出来る訳ではない。増して経験の無い人にとって、それはかなり難しいものになろう?
下のグラフは、http://www.garbagenews.net/archives/1344618.htmlから引用しています。
↑ 種類別世帯数推移(千世帯、1968年~2008年)
↑ 種類別世帯数推移(千世帯、1968年~2008年)

児童虐待を取り巻く環境は、良い方向に向かう可能性が低い、としか思えないような統計しか出てきません。日本の拙い民主主義がこのまま手を拱いて何もしない間に、状況は悪くなる一方のように思えます。攻殻機動隊が描かれる40年後は、核家族の4世代目や5世代目が子育てをする頃でしょうか?仮に核家族化が児童虐待の温床であるならば、起こる確率はどんどん増えていくのだろう?と思えます。それならば、年間5万の無意味に失われるGhostもあながち多すぎる数字とも思えません。攻殻機動隊スタッフの創り出す単なるSFとは言えない現状が、世の中には既に蔓延しつつあるだろう?と僕には思えます。

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2010年10月13日 (水)

このブログのアクセス数の半分は、「Stand Alone Complexの意味は?」と言う記事だな・・・

ブログのアクセス解析を見ると、この記事が常にブログ内のアクセスランク1位になっている。良く解らないな、何でこんな記事が何年もトップなんだろう?と思ってリンク先を辿ってGoogleに行って見たら、1ページ目にそのリンクはある。
攻殻機動隊を見た後に、Stand Alone Complexと言う物語の主題に自分なりの見解を書き残しただけの記事で、僕にとってはその時点で何を考えていたのかの資料性はあるけれども、読んだ人にとっては資料性に乏しい。解説に向いたもっと良い記事は他にあるだろう?少なくてもGoogleの検索ページを幾つか摘んだ印象からは、実践女子大学の学生が書いたこのレポートの方が余程良く調べられている。http://campus.jissen.ac.jp/seibun/contents/etext/termpaper/SAC04.pdf
(学生の名前も書いてあったけど、載せて良いか解らないので消しておきます。まあ、調べようと思えば簡単だろうけど・・・04と言うことは、もっと書いているのだろうか?)
何でそんなにこの意味に興味を持つのだろう?

Solid State Societyを見た。
士郎正宗と言うのは、一体どう言うんだろうな?余程人間嫌いなのか?真に人間を愛しているのか?
作者の素性は調べてないから知らないけれども、大人に絶望して子供に夢を託してでもいるのだろうか?
大人の創っている社会の問題を物語を紡ぐ事で、子供達の未来を希望あるものにでも変えたいのだろうか?
攻殻機動隊以外の作品を見ていない、と言うよりあるのか無いのかすら知らないが、現状で解決が難しいと思われる社会問題、例えば地球環境、核問題、育児放棄、家庭内暴力、少子高齢化、大人の虚栄心、大人の無責任さ、人々の思考の欠如、そう言った厄介な代物を炙り出す事には成功しているだろうか?
先送り=現状では何もしない、もしくは出来ない問題は、取りも直さず民主主義の齎す最大の欠点だが、国家と言う大規模集積回路の中の主権者一人一人をonかoffかの判断しかしないトランジスタと捕らえるのは、ある意味厭味だよね。
過激な因子を民主主義の規律で正すことは、多様性を否定しては進化は望めないと考えているからだろうか?
現状は望み薄だが、希望は捨てて居ないと言う事か?

こんな記事が、アクセスランクの上位に居ると言うのは、彼の蒔いた因子が芽を出しつつあると言う事を意味しているのかも知れないな?と思う。

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2010年9月27日 (月)

思想誘導を受けやすい環境

Stand Alone Complexの意味の再考と言う記事の中で、
「高度に情報化された社会において、人々は大変沢山の情報に晒されます。そのため、得た情報が何処から仕入れたものなのかを把握しづらくなる傾向が見受けられます。この傾向こそが、Stand Alone Complexと言う社会現象のインフラとなる要素なんじゃないでしょうか?」
と書きましたが、あまりにその環境に慣れてしまった時、人々が情報の出所に注意を払わなくなること自体に一番の杞憂があります。

新聞はどうやって得た情報なのかを必ず載せます。必ず何処の通信社からの情報であるとか、取材した記者名が載っています。情報源を明かせない場合は、情報の裏取りをしたりと、それなりに正しい情報を伝える努力がされています。しかし、ネットに無記名で流れる情報には、それが正しい情報であるかどうかの判断が付かない情報が沢山流れています。あまりに出何処の解らない情報を受け入れ続けていると、それが当たり前のように感じるでしょう。慣れとして情報の出所に注意を払わなくなる事は、正しい情報かどうか確認もせずに鵜呑みにする可能性が高くなる、と言うことです。

仮に多くの人たちが、こういう状態に陥っているのだとすれば、情報操作はいとも簡単です。別段ウイルスを使わなくても思想誘導は可能になるでしょう。これって、過去に戦時下の日本の教育でも行われていたようですが、政府が情報統制を行って誤った情報を与え続けるのであれば、ある意味政府がウイルスを流しているのと同じ意味を持ちます。国民は知らず知らずのうちに政府の思うがままに思想を誘導されてしまう危険があるのです。ですから、誰もが自由に独自の思想に基づく発言をしても許される憲法に歌われる表現の自由は重要です。

政党が沢山あって、教科書を一つとっても議会で侃々諤々する国では、政府の行為としてそう言った杞憂はない。三権も分立していて、行政が主にやらなくては行けない国益にむしろ一致しない思想が幅を利かせて、国として纏まらない。まあ、挙国一致なんて言い始めたら、それこそ軍政下の拙い政権のやることのようだよね。だから、色々な意見が出て行く中で緩く民意を形成するような政治形態が間違ったところには行きづらい。

ちょっと話が脱線しそうだが、あまりに沢山の情報に晒されて情報の信憑性に注意を払わない人々が民意を形成するのであれば、それは民主主義の根底を揺るがしかねない大きな問題です。Stand Alone Complexとして発想される社会現象が、仮に情報操作を受けやすい民衆の起こす現象であるならば、アニメの世界の中のことではなく現代のこととして捉えなければなりません。思想誘導を受けやすい民衆が国を動かしてしまうのであれば、それは間違った方向に行きやすいことを意味します。

このブログに攻殻機動隊ネタの検索で来られる方々も、色々なサイトで書かれていることを鵜呑みにしないことをお勧めします。
えっ?当然このブログもです。(笑)
ああ、それから、時節ゆえに何処かの大国の話を書いているわけでもありません。まあ、日本のように政治的にも宗教的にも安定した国に生まれ育った事は幸運であるとは思いますが・・・

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2010年7月30日 (金)

草薙素子と言うキャラクタデザイン

そもそも、アニメのキャラクタについて語ってしまおうとか考えてkeyboardを叩き始めているところで、既にオタクの定義に合致するので如何なものかな?と思います。
現実には存在しないアニメの創作されたキャラクタについて論じること自体に、現実と非現実の混同を見て取れます。それは、極端に狭い領域の知識、特にアニメの中の仔細な事項にまで興味の対象に向け、現実的には無意味な知識を同好の志達のみの中で共有するような行動は、オタク達の行動そのものであるとさえ思えます。のっけからかなり脱線しました。

攻殻機動隊のメインキャラクタと言って良いかも知れませんが、草薙素子と言う女性は、女性的な外見を持つ屈強な公安職員(警察官)として設定されています。
情報戦を戦うためのハッカーとしての能力、スパイ映画の登場人物、例えばジェイソン・ボーンのような自らの能力を緻密に計算する行動原理を持つことは、肉体的な能力よりむしろ重要です。
特に相手の思考を読むような能力や、関連事項を瞬時に結び付けていく判断力はスピードが重要な公安の実行部隊のリーダーと言う役柄の設定には、欠かすことが出来ないのでしょうね?

草薙素子は、僅かな脳を残して生体パーツは残していないようです。「久世英雄」共々、出生のエピソードに全身擬体化が必要であったとは思えませんが、非現実と現実を彷徨い、現実感を追い求める姿を描くとか、人間に対する失望と希望を同時に描くとかには、全身擬体化は必須とも言えます。

電脳は、肉体的な力のないホールデンにハッカーとして大きな力を与えることも出来きます。笑い男には少年らしい正義感がどうしても必要です。だから笑い男は少年であることが必須だけれども、それでは高価な擬体を手に入れることや物量をを得ることは不可能です。だから、ハッカーとしての能力は、一番安上がりな強さなのでしょう。現在の情報戦もコンピュータアーキテクチャに詳しくて、クラッキングツールを書ければ、PC一台からでも情報戦を戦えます。まあ、当然、違法行為であるのと、相手を間違えると生存の危機になるけれども。

草薙素子は、あおい君のようなハッキングテクニックと高価で高性能な擬体の両方を持ちます。登場人物たちの高価な擬体は、軍上がりであることで大方説明が可能でしょう。軍事費は、何時の時代でも、庶民には想像を絶する金額になりますから。

士郎正宗は、近未来の女性型Cyborgを最初にイメージしたのではないだろうか?
社会の闇を知り、正義感が強く、人間の弱さを理解し、孤独に対する耐性を持ち、優しさと同情の違いを理解する。
戦闘能力が高く、勇気があり、思考能力が高く、情報戦も戦える。
そして人間臭い、そう、例えばオネエ的な感情を持ち、粋である。
キャラクタデザインとしての草薙素子は、士郎正宗自らの理想を具現化し、彼の理想的な女性像に重ねたのかも知れません。

そして、そのキャラクタに共感するもの達が、この物語の熱烈な支持者達なのだろうか。

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2010年1月29日 (金)

サリンジャー氏が死去

「ライ麦畑でつかまえて」 米作家サリンジャー氏が死去http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20100129STXKE100228012010.html

とNIKKEI.netに出ていました。

「51年、成績不振で退学に追い込まれる高校生を描いた長編「ライ麦畑でつかまえて」を出版。新鮮な口語体で、揺れ動く思春期の少年の視点から大人社会の欺瞞を鋭くえぐった。道徳的保守派からは強い反発を招いたが、日本を含む世界中の若者の圧倒的支持を得て、小説家としての地位を不動にした。」

この短評を逆方向から見れば、この作品が嫌いな高校生と言うのは、既に道徳的保守派だったのだろうか?

何かなあ、釈然としないなあ・・・

まあ、でも、それは別な話。

お悔やみ申し上げます。

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2010年1月24日 (日)

思考の迷路の入り口

現実は非現実的を参照する。
現実から理想、夢、虚構とその対比を変化させてきた先に向かうのは、再び現実だろうか?
精神的な幼稚さは、非現実に満足しなくなった時、肉体的な現実を欲するのではあるまいか?
現実の創造は、動物的な神経刺激としての快感だとか痛みだとかだろうか?
例えばサイボーグのように仮想現実の延長のような生を得るならば、肉体的な現実感とは、どう言うものになろうか?
電脳化され、一種のコンピュータのような媒体に個を宿すなら、AIとの境界は曖昧なものに成ろう?その場合、現実と虚構とは何をもって知ることが可能だろうか?
その答えが動物的な肉体への神経刺激とすれば、精神的な苦痛と成ろう?
肉体的に非接触な現実に生きれば、非現実との境界は曖昧になる。現実の世界に生きて、尚、現実感を得られない者は、この世界を絶望て捉えるであろうか?
攻撃的な非現実の世界に嵌り込んでしまった者が、現実を欲する場合、その矛先は現実的な他者への攻撃であろうか?
理想への欲求であれ、現実への欲求であれ、過激な欲求は、これまで多くの悲劇的な結末を生んできた。我々が望む理想や現実感への満足は、必ずしも簡単に得らるものではない。非現実の中ではリセットすれば現実に戻れるが、現実の中ではもう戻れない。仮に現実感だとか理想を体感したところで、未来を引き換えにする価値があろうか?

大澤真幸の不可能性の時代を読んでいて、こんなことを考えていたが、読み終わった時に同じ事を考えているやら・・・

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